許せないので苦しい。許したいが許せない。

長野の子ども白書編集委員会

2013年02月14日 23:09

過去のいじめのトラウマから抜け出せず苦しむ若者・大人・保護者は多い。信毎の特集記事へのメールや投書がたくさん届いていることからもわかる。自分が生きずらさを背負ってこんなに苦しんでいるのに、相手はまるでなかったことのように平気な顔をして元気に過ごし、こちらはできるだけ会わないようにしていてもばったり出会うと「元気?」などと聞いたりする。保護者はいじめられていた渦中に「どうかうちの子を助けてやってほしい。話しかけてくれるだけでいいから」と親しい保護者に頼んだら「うちの子がいじめられるから」と断られた日のことをずっと忘れられない。大人になって故郷を離れてから「**ちゃん、今どこにいるの?」とスーパーで立ち話のように聞かれると(おまえに答える必要はないわ)と、背筋が寒くなって身体がかたまってしまう。こんな気持ち、これっぽっちもわかっちゃいないんだと涙が出る。息子は大学を出て就職し結婚して親にもなった。それがどうだというのだろう、かつて友だちがひとりも助けてくれなかったことが帳消しになるだろうか。許すことができないのはとても苦しい。相手にこの苦しみをわかってもらえないことがつらい。
謝って、罪をつぐなえば許すというのではない。「あなたをそれほど苦しめた自分がまちがっていた」と心の底から許しを請うて欲しい。謝罪はその後だ。かたちばかりの謝罪で済まされた「解決」も、「忘れましょう」というありがたい励ましもそのこと事体が「許せない」。
「謝っているのに許さない」と、逆に攻撃する人もいるが、「許す」ことは簡単ではない。
自分の思いを代わって語れるくらいにわかった相手でなければ許せない。相手の思いをわかることも簡単では無い。自分の気持ちを聴いてわかってくれる誰かが必要だ。「相手の気持ちをわかる」のでなく、「自分の心で相手の苦しみを味わい、それをした自分の口で語ること」いろいろな立場の人が集まって行う修復的対話のルールは
1,相互に敬意を抱く
2,相手の話に耳を傾ける
3,相手を中傷しない
4,話したくなければ話さなくてもいい

「許せない」苦しみから心を病み、「許すチャンス」を望む人も多い。相手に永遠に届かない自分の思いに苦しんでいるのだ。
修復的対話のカンファレンスを根気よく積み上げることが待たれているけれど、決定的な問題はこの方法は「学校教育」には馴染みにくく、むしろ社会福祉の領域の専門性が期待されていることだ。「子どもは学校で」という考え方からの脱却の機が熟しているのかもしれない。でもやはり修復は早くその場で。「許されない自分」に苦しむ人もいる。