黒姫童話館から「ミヒャエル・エンデの世界」をご案内します。

長野の子ども白書編集委員会

2019年05月07日 20:57

2019長野の子ども白書掲載予定記事紹介㉟

黒姫童話館から「ミヒャエル・エンデの世界」
(一部を抜粋してご紹介しています)

エンデと日本
エンデと日本との一番のつながりは、エンデ・佐藤真理子夫人になるでしょう。生涯2度の結婚をしているエンデ。作家として活躍していたエンデは図書館に調べもののためにミュンヘンの国際児童書館へ、そこで日本語書籍を担当していた真理子夫人と出会いました。初めて日本を訪れた際も、真理子夫人が日本を案内しています。どうして日本だったのでしょうか?「ジム・ボタンの機関車大旅行」では東洋的な国としてフクラム国が登場します。また、幼少期に近所に住んでいた青年画家ファンティの家は子どもたちの遊び場でした。彼は子どもたちに絵を描きながら、創造したおはなしを語ってくれました。その絵をエンデは生涯「作家としての原点」として大事にとっていました。現在その絵は黒姫の展示室で見ることができますが、その中には東洋をイメージさせる絵もあります。第2次世界大戦での広島、長崎への原爆投下に衝撃を受けて作った詩「時は迫る」を書くなど、日本へ興味を持つ機会があったように思われます。作家としていろいろな事象を見つめるとき、何でも科学や数字で解決する西洋的な考えに疑問を持つようになっていました。対して東洋的な考えにだんだんと興味ももっていったのでしょう。初来日の際には弓道場や禅寺などを訪れています。日本には6回来日していて、最後は1992年『モモ』日本語出版100万部記念で、黒姫童話館にもお越しくださいました。そして、もう一つのつながりは子安美知子さんとの出会いではないかと思います。お二人の出会いは1985年、『エンデと語る』(朝日新聞社1986年)出版のためのインタビューでした。エンデの作品に魅了された子安氏にとって出版にむけてのエンデとの交流は夢のようであったのではないでしょうか。また、この出会いがきっかけで、毎夏ドイツに長期滞在され、エンデとの交流は深く『ハーメルンの死の舞踏』(朝日新聞社)の日本語訳を任されるなど深く、エンデの死も真理子夫人とともに看取りました。
黒姫からの願いに応えてくださったエンデとは、その後お話が進むなか、日本に来ていた資料だけでなく、エンデ家にある全資料と「今後とも私が生きつづける限り、新たに生じる資料もすべてさしあげます。」との約束どおり、亡くなった後も遺品として2000点にもおよぶ資料が納められました。展示監修をいただいた子安氏がいたからこそ日本にご自身の資料を預けてくださったと思います。エンデ資料はドイツにも数か所納められていますが、全体の9割近くは黒姫に収められていて、生誕から亡くなるまでの資料があるところは世界随一です。その資料を常設展示として黒姫で見ていただく事ができます。(全文は2019長野の子ども白書で)