子どもの権利条約の精神を生かした「こども基本法」の理念法としての意味(つづ

子どもの権利条約の精神を生かした「こども基本法」の理念法としての意味(つづき)

「こども基本法」は、子ども施策が「日本国憲法および児童の権利に関する条約の精神にのっとり」と明記されたことで、子どもが権利の主体であること、その権利を保障する目的があることが明文化されました。「児童の権利に関する条約」のいわゆる4原則、「差 別の禁止」、「生命、生存及び発達に対する権利」、「児童の意見の尊重」、 「児童の最善の利益」の趣旨を踏まえ、規定されています。一番大切な点は、社会の都合や希望や期待、によって子ども施策が行われるのではなく、「子どもの最善のしあわせ」を保障するために行われるということです。

この理念は、現代の私たちの社会に大きな波紋を呼び、大きな変革を迫るものになると思います。

子どもたちの生きづらさや数々の困難や「しあわせではない」子どもたちの「声」やすがたは、国民全体の「しあわせ」にもつながる大きな問題提起です。「どうしてこんな社会になっちゃたんだろう」と嘆く私たちが、その「どうして」に気づき、生き方を変えていく・社会を変えていく行動にその方向性を見出すためのチャンスなのではないかと思います。

 1929年にドイツに生まれたミヒャエル・エンデは、1973年に『モモ』を書き、世界的な評判を呼んで1976年に日本でも翻訳・発行されました。今日またこの『モモ』が注目されているのは、作者が(この話を私にしてくれた謎の人のことばとして)「わたしはこの物語を過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話しても良かったんですよ。どちらでもそう大きな違いはありません」と書いていることが、まさにその通りになっているからです。
 「時間泥棒」「灰色の男たち」「よいくらし」「将来のためになること」は、どこにいて、その男たちに「よいくらし」とひきかえに「時間を売りわたし」子どもからも「将来のために」遊びや自由な時間をとりあげているのは誰なんだろう・・・。時間を売り渡してすることもなくなった人たちはこの物語では「退屈病」になり、感動も関心も生きる楽しみも失ってしまいます。時間泥棒たちはやがて互いに争いつかれて自滅します。
 町の人々を救ったのは、浮浪児のモモでした。モモは「楽しかった時間を取り戻したくて」のろのろ亀の「カシオペイや」に運ばれて「時間をつかさどるマイスター・ホラ」に出会います。そこからは本当にファンタジーだけれど、「ひとりひとりの人間に与えられる時間のゆたかさや美しさに」感動して凍り付いた花を生き返らせるのです。
 
 わたしたちが今、本当にしあわせな日々を生きているのか、子どもたちが楽しい毎日を過ごしているのか、その貴重な時間はわたしたちのものになっているのか、「子どもの権利条約」の精神とは、世界中の国の子どもに生かされる「最善のしあわせ」を大人社会に課した課題なのです。


Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月29日09:33

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