「ボランティア足りない」と首長が言ってしまう事への違和感
今朝のローカル紙(長野市民新聞)に、丸田勉さんがコラム「こだま」でこんなことを書かれていました。「ボランティアとは無償の奉仕ではなく、自ら進んで社会事業などに参加すること(広辞苑)であって、依頼されたり要求されたりすることではない」と。また、「今回の災害が緊急事態であれば、その時こそ行政や国はいちはやく対応すべきで、ボランティアに頼るべきではないだろう。地元の業者に正当な金銭を支払い仕事として発注し・・・国民はそのために税金を払っているのだ・・・」とも。
まったく同感です。多くの人が同じことを思っています。口に出してどうなるものでもないと言わないだけで・・・。
■いつだったか全国版のテレビのニュースに、阿部知事が「まだまだボランティアが足りません」と訴えていたことがありました。その日も私は穂保高台公園のテントにいましたが、ボランティアに来ていた多くの方が「足らないってなんだよ。自腹で宿泊もして来ているボランティアに対して、そりゃあないだろう」とつぶやいておられるのを苦い思いで聞きました。中には1週間以上車中泊で毎日泥出しに参加されている他県の方も多くおられ、平日はたぶんリタイヤされた高齢の方が多いのも事実です。
多くの飲食業者の方々が避難所近辺での「炊き出し」や食事提供を申し出ても「全員にいきわたらない?」という理由で排除され、有名店や有名人の団体だけを許可して報道にも公開しました。たった一日のイベントで。でもこれはうれしかったと思います。全員にいきわたる「お弁当」は冷たく毎日同じで「温かいものが食べたい」と、避難所から支援テントの炊き出しに並ぶ人も増えてきたのです。
行政がやることは「公平」「責任」「安全」を守ることでいっぱいのようです。
■公的事業がどんどん民営化され、「自助・共助」という言葉が当たり前のようになっている新自由主義的政策に対し、子育てや教育からも公的責任が後退することに危機感を持っていますが、その穴埋めや水先案内をしてしまうのが「善意のボランティア」であることにも悩ましく感じています。憲法で保障された国民の権利を保障するのが行政の責任であるはずで、その責任を回避する政権には担当の資格はありません。
NPOや農業団体が呼びかけて始めた「農ボラ」も、本当は農水省の仕事であって、「自分で片付けろ」と言っているのと同じです。
被災者の生活保障も厚労省の仕事です。「支援物資お断り」を言うなら、公的予算で必要な物資を配給すべきです。
陥っている困難や困窮が「災害によるもの」だからと言って、自己責任にしてしまいボランティアの力で解決するのはおかしいです。
■私は「善意のボランティア」をする気はまったくありません。行政がやらない隙間で支援が必要な場所があればできることをしたいと思うだけです。
「穂保被災者支援チーム」は、「善意のボランティア団体」では無いと思います。「自分にできる事をやろう」とする人の集まりです。
でも、この仕事を当然担うべき公的機関や窓口はあるはずで、徐々に手渡していかなければならないと思います。
■利用時間を超えて回り続けるコインランドリーが、Wハウスの善意で提供されているのを、視察された加藤市長が笑顔で眺めておられたのが印象的でした。公的予算はまったくゼロですが、「手配」することなら行政ができたと思います。(支援チームが手配しました)