許せないので苦しい。許したいが許せない。

過去のいじめのトラウマから抜け出せず苦しむ若者・大人・保護者は多い。信毎の特集記事へのメールや投書がたくさん届いていることからもわかる。自分が生きずらさを背負ってこんなに苦しんでいるのに、相手はまるでなかったことのように平気な顔をして元気に過ごし、こちらはできるだけ会わないようにしていてもばったり出会うと「元気?」などと聞いたりする。保護者はいじめられていた渦中に「どうかうちの子を助けてやってほしい。話しかけてくれるだけでいいから」と親しい保護者に頼んだら「うちの子がいじめられるから」と断られた日のことをずっと忘れられない。大人になって故郷を離れてから「**ちゃん、今どこにいるの?」とスーパーで立ち話のように聞かれると(おまえに答える必要はないわ)と、背筋が寒くなって身体がかたまってしまう。こんな気持ち、これっぽっちもわかっちゃいないんだと涙が出る。息子は大学を出て就職し結婚して親にもなった。それがどうだというのだろう、かつて友だちがひとりも助けてくれなかったことが帳消しになるだろうか。許すことができないのはとても苦しい。相手にこの苦しみをわかってもらえないことがつらい。
謝って、罪をつぐなえば許すというのではない。「あなたをそれほど苦しめた自分がまちがっていた」と心の底から許しを請うて欲しい。謝罪はその後だ。かたちばかりの謝罪で済まされた「解決」も、「忘れましょう」というありがたい励ましもそのこと事体が「許せない」。
「謝っているのに許さない」と、逆に攻撃する人もいるが、「許す」ことは簡単ではない。
自分の思いを代わって語れるくらいにわかった相手でなければ許せない。相手の思いをわかることも簡単では無い。自分の気持ちを聴いてわかってくれる誰かが必要だ。「相手の気持ちをわかる」のでなく、「自分の心で相手の苦しみを味わい、それをした自分の口で語ること」いろいろな立場の人が集まって行う修復的対話のルールは
1,相互に敬意を抱く
2,相手の話に耳を傾ける
3,相手を中傷しない
4,話したくなければ話さなくてもいい

「許せない」苦しみから心を病み、「許すチャンス」を望む人も多い。相手に永遠に届かない自分の思いに苦しんでいるのだ。
修復的対話のカンファレンスを根気よく積み上げることが待たれているけれど、決定的な問題はこの方法は「学校教育」には馴染みにくく、むしろ社会福祉の領域の専門性が期待されていることだ。「子どもは学校で」という考え方からの脱却の機が熟しているのかもしれない。でもやはり修復は早くその場で。「許されない自分」に苦しむ人もいる。



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2013年02月14日23:09

この記事のコメント

・・・「修復は早くその場で。」・・・、「修復のエキスパート/修復のコーディネーター」は必要と思う。
が、「18歳まで」の文字に淋しさを抱く。
18歳をとおり過ぎてしまった子どもたちは、いつ、どこで、誰に、どんなかたちで修復を助けてもらえばいいんだろう、と考える。
その子どもたちの多くには、一緒に苦しんで来た保護者もいる。

許せないことに、ときどき無性に苦しむ保護者・・・。
同じような想いの子どもや大人や保護者がいるんだな、と少し安心する一方で、そんな人は1人でも少ない方がいい、とさらにつらくもなる。
許せたら、自分自身が一番楽になれるだろうことは、理屈ではわかる。
でも、許す根拠が今も見つからない。
人が、人の人生の何十年もを、踏みにじっていいとはどうしても思えない。

歳月は流れ、子どももそれなりに自立した。
親も、子の背を追いつつ、過去は忘れ、今を見つめ、思い出さぬよう、触れぬよう、生きようと努める。
が、「もう大丈夫」と安心し切った子どもが何か事にぶつかると、刻はふた昔以上前にいともたやすく残酷なほどに引き戻される。
一瞬立ち止まった後で、手繰り寄せるようにすべてを思い出しては仕舞いの繰り返し。

「いじめって、いじめをした人だけを指すんじゃない。いじめられている姿を見て見ぬふりしていたクラスメイト、学年全員が自分をいじめたと同じこと。『傍観者』はみんないじめた人だ」と子どもが作文に書いた日から、この町は子どもにとって、針のムシロだと知った。
子どもは「2度とこんな町には戻らない」と町を出た。
成人式にもクラス会にも、出席するわけがない。

「助けて」と協力を求めても「かかわり合いになりたくない、矛先が我が子に向くのは迷惑だ」と明言した保護者。
「家の子には子どもが生まれ、おじいちゃんに、おばあちゃんになった。△△に勤めている。お宅の子はこの町には戻らないのか?今どこに?勤め先は?結婚は?お孫さんは?延々etc」・・・。
「そんな会話は『今日は良い天気ですね、今日は降りそうですね』と同じ意味の挨拶言葉だ」と言った人がいた。意味はわかる。
が、背を向けた保護者と挨拶する気はない。
先方の動向など聴きたくもない知りたくもない耳に入れないでほしい。
かかわり合いになりたくなかった同級生のプライベートに立ち入る権利などない、静かな生活に踏み入らないでほしい。

*学校は、犯人捜しをするところではありません。
*いじめた加害者にも、人権があります。
子どもがいじめに遭い続けている渦中、担任がしつこく教えてくれた言葉。
『いじめに遭っている子どもの人権』はどこへ行くのか応答できなかった進級先の生徒指導教師。

みんなみんな今も許せない。
許せない自分が、さらにつらい。

昨夏の〔共同メッセージ〕も、暮れの衆議院選時の各党の〔いじめにかかわる策〕も、ストーンと胸に落ち行くものがないのはなぜだろう。
ある電話相談室では昨夏、当時の担任の現:勤務先を問われた。
それを今さら知ってどうするのか、何になるのか、きちんと伺っておけば良かった。

・・・「自分の気持ちを聴いてわかってくれる誰かが必要だ。」・・・21年間、子どもも親も何とか生きて来られたのは、まさしく「自分の気持を聴いて『わかろうと努力してくださる方々』の存在」があったから。

・・・「子どもは学校で」という考え方からの脱却の機が熟しているのかもしれない。」・・・いじめも体罰も不登校も、他さまざまな学校現場で体験してしまった苦しみやつらさや悲しみは、学校を卒業したからと帳消しになるものではない。
学校現場の問題=学校にいる間だけの取り組み、という構図はもう少し深く考え直してほしく願う。
取り組んでくれたならまだ救われる。
取り組んでももらえなかった子どもたちの心はどこへ持って行けばいいんだろう、と今も疑問。

・・・「許されない自分に苦しむ人」・・・、その人には『心』がある証。
Posted by リトルミー at 2013年02月15日 04:52
いじめた子といじめられた子、一度でもいいので同じ場で心の内を語り合わせてほしかった、と今なお後悔する心が生きている。

両者一緒のもと「事実関係の確認を」と何度も担任には依頼した。
一度も叶わなかった。
なぜ応えていただけなかったのか、今もわからない。

もしも一度でも実現していたら、
いじめられた子は
「私はなぜいじめられたんだろう?
 あの子はなぜ繰り返しいじめをしたんだろう?」などと成人してもなお問うことはなかったかもしれないし、
「いじめた子の心の事情を知ること」ができたら、その時点で許せていたのかもしれないし、
いじめた子も
「いじめられた子の心が、どう傷付いてどんな想いをしていたのか『共感』すること」ができたかもしれないし、同じことを繰り返さずにすんだのかもしれない。

「関係修復」はむずかしいと思う。
でも、努力がなければ渦中にいる子どもは救えないし、時を経過した子どもや大人の心も癒されることを知らない。
Posted by リトル“ミイ” at 2013年02月18日 03:07
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