学校の先生方が見ている風景と保護者や地域が見ている風景がちがう(2)

学校の先生方が見ている風景と保護者や地域が見ている風景がちがう(2)

「学校の先生方個人や学校のやり方がいけない」と批判しているわけではないんです。
学校に行かれなくなった子どもたちがつぶやくのは、「思い出すと辛い言葉」や「今でも不安になるシーン」。考えると苦しくてそんなことで学校に行かれない自分はダメなんだと思うともう死んでしまいたいと思う。きっかけの数々。

この心の在りかは簡単には説明できない。
毎日積み重なる何かが重い。「そんなこともできないのか」「なんどいったらわかるんだ」「きまりなんだからまもりなさい」「よくできました」
「あ、いやだな」と思うのは、クラスメイトが何でもないことで褒められたり叱られたり馬鹿にされたりすること。先生は冗談ぽく「まるで動物園だね」いうから笑った方がいいんだろうか。でもイヤだから何でもない顔をする。疲れる。自分が言われても周りの友達は自分と同じように知らん顔だから、自分も平気な顔をしてへらへらしている。すごく疲れる。「つまらない」と言ったらとがめられたので学校に行かれなくなった。疲れてる。休んでいても思い出す。
こういう話を学校の先生にすると「感覚が過敏な子や繊細な子は時々います。先生はきっと子どもたちのために言ってると思うので、それが理由で学校に来られないのでは無いと思いますよ」とていねいに説明される。「それは大変なことですね」という反応をする先生はほとんどいない。
民主的で子どもの立場になって熱心に教えてくれる先生方ほど、不登校の子どもたちの「つぶやき」を安易に受け入れない。学校のあるあるをひとつひとつ「どちらが正しいか」白黒つけようとする。先生方にも言い分はある。もちろん、言わないけど言いたいことは山ほどあるはず。

不登校も、教員の多忙や疲弊も、同じ根っこから生えてる木なのだとういことがせっかく見えてきたのに・・・。伝統的な学校のシステムも評価や管理に統制された学校のあり方も、そもそも子どもが権利の主体だという教育の目的の不在も、みんな考え直さなくてはいけないということを、辛くも逃亡した「不登校」の子どもたちが教えてくれている。文科省に大鉈をふるうのは難しいけれど、地元で地域でわれらが学校を考えていくことは明日からでもできるではないか。憲法に保障された義務教育を受ける権利は子どもにあり、その権利の主体は「子ども」です。




Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年03月19日21:18

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