2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑪人権、子どもたちの現在(2)

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑪人権、子どもたちの現在(2)


人権、子どもたちの現在(2)
 子どもの支援・相談スペース「はぐルッポ」スタッフ 斉藤金司

この国は、いったい、どこに行こうとしているのだろう、関東大震災時の朝鮮人虐殺を「政府内には事実関係を確認することのできる記録が見当たらない」(2023.8.30)と言い張る松野官房長官の言葉に、自分は暗澹たる気持ちにならざるをえませんでした。しかも、このような言説が、多少マスコミで批判されはしても、結局はそのままスルーしていくのが、この国の現在です。
 コロナが5類になって、久々に孫たちが来て、こんな学校の話をしてくれました。東京の公立中2年の孫は、生徒会の役員の一員として、女子から要望の強い「三つ編み禁止」という校則の撤廃を求めて先生のところに行ったそうです。「先生たちは、できないって言った」「どうして ?」「高校入試の面接の時、まずいって」「面接のとき、三つ編みにしていかなければ、いいじゃんな」「ううん、そう思うけど、先生たちは今から準備しておかなきゃ、いけないって」「それで、納得しただ ?」「しない、言い訳じゃん」「じゃ、納得できないって言えばいいじゃん」「だって、それ以上言っても仕方ないじゃん。今は言えないよ」(彼は、忘れ物の天才。一つ忘れ物をすると、1点減点すると担任に言われているとのことです)「じゃ、いつ言うだ ? 」「大人になって、言えるようになった時、言う」埼玉の公立高2年の孫も、中学高校ともに三つ編みは禁止でした。「そのことどう思うだ ?」「特に「三つ編みにしたいと思ったことないだ ?」「特に。規則だから」こんな会話をしながら、自分にはコトンと胸に落ちるものがありました。ああ、このようにして、子どもたちは「もの言わない」子どもに育っていくのだ !学校では、先生と子どもはいまだに権力関係にあって、そこでは、子どもたちの本質的な問いも、こんなふうに適当にはぐらかされて封殺されていきます。なかには、彼女のように現状を「当たり前」のこととして、問うことすら既に諦めている者もいます。
「はぐルッポ」の子どもや保護者の話を聞くと、いかに学校が、日常的に子どもの人権を軽んじているか、気づかされます。
学校は、「一人ひとりを大事に」「個に即して」などと謳いながら、じつは、「みんな同じ」「みんな一緒」という原理で動いています。その結果、子どもたちは、いつも強い同調圧力の中で「ねばならない」「であるべきだ」にがんじがらめに縛られています。そして、それらが「ちゃんと」できない場合、こんな形で指導されます。
「問い詰める」=「何回言われたらわかるの」
「言いくるめる」=「お前のために言ってるんだ」
「恥ずかしめる」=「みんなの前で謝れ」
「怒鳴る」=「なんで、そんなことができないんだ」
「脅かす」=「これ以上休むと、評定つかないから行く高校ないよ」
「見捨てる」=「わかった。もう、勝手にしなさい」
「差別する」=「そんなことしてると、○○学級(特別支援学級)へやっちゃうぞ」
挙げればきりがありませんが、日本の学校は、ずーっとこんな感じで(自分もそうでした。弁解の余地はありません)子どもを管理してきたように思います。「なぜ日本では子どもの人権がこれほど軽んじられるのか」(Eyes1041 『AERA』2023.11.17)という問いに、内田樹はこんな仮説を立てていました。「敗戦後から1960年代末まで日本社会は子どもへの権限移譲にきわめて前向き」で「子どもたちは児童会や生徒会で学内のルールを決めることができた」。「だが、60年代末に全国学園紛争が起きて、日本中の多くの大学が一時期無政府状態に陥った。このトラウマ的経験を通じて、『子どもに権利を与えてはならない』という確信が右派の人々に刷り込まれた。以後半世紀『子どもに権利を与えてはならない』という恐怖症が自民党政治には伏流している」この仮説の当否はわかりませんが、しかし、この「伏流」は、今、確かな流れとなって地表に現れています。
教育基本法を改正して「我が国と郷土を愛する心」を教育の目標に加え、教科「道徳」を導入して子どもの内心のあり方にまで踏み込み、そして、「学びに向かう力、人間性等」を教科の評価に加えるなど、文部科学省は、「人間」としてのあるべき「典型」を示して全ての子どもをその中にはめ込み、その基準によって評価しようとする動きを強めています。まさに、白井明大が「この30年間、人権意識や平和主義や民主主義がどれだけ後退させられてきたか、ひしひしと伝わって」(『日本の憲法 最初の話』)くると言う、その言葉通りの状況が加速しているのです。
道徳の教科書(小1)に載っている「かぼちゃのつる」には、呆れました。
《他者の忠告も聞かないで自分勝手にどこにでも伸びていくかぼちゃのつるが、最後には人間の曳く荷車に轢かれてつるを切られ、涙をこぼして泣く》このような教材で、子どもたちは「節度、節制」を学び、「身の回りを整え、わがままをしないで、規則正しい生活をすること」を学ばせられています。だが、ここにあるのは、自由気ままに伸びて行くことはつるの必然であり個性でもあるのに、それを一刀両断に悪とする善悪二元論です。悪い者は、その命を奪うほどの暴力で痛めつけてもいいという暴力肯定論です。そして、悪いことは、報いを受ける受けないにかかわらず悪いことであるのに、悪いことをすれば罰が当たるという因果応報論です。なんというご粗末な教材、痩せた教育でしょう ! 
 その上、このようにして学習された子どもの内面は、先生によって、「公的に」評価されます。既に、「観点別の評価」によって、授業中の態度や教科に対する意欲まで評価されていますから、子どもたちは、ますます、常に気を張りつめながら子どもらしくないふるまいをせざるをえなくなります。 『東洋経済オンライン』(2023.2.24)は、有名公立高校に合格した女子生徒が、調査書の内申点を挙げるためにしたけなげな努力を紹介していました。「大切なのは、提出物を全部出すことと、積極的に授業で発言すること。得意教科の係になって先生に顔を覚えてもらうこと。あとは、10日以上連続の欠席をしない、先生に反抗しない、ふざけない、あいさつをする」「集団行動が苦手なので、部活をやっておらず、内申がつかない。だから生徒会をやることにしました。あとはウチの親がPTA役員をやって、“あの先生はこういう性格だ”と教えてくれていましたので、親子で先生の性格を考えながら、ぶっちゃけ“媚び”を売っていました」こうして、子どもたちはまるで「忖度人間」です。このような学校生活が、子どもたちに与える影響の深さに自分は強い危惧を覚えます。子どもは先生の要求するところを納得いかないまま受け入れて習慣化していく。その結果、本来異常であるはずのことがいつのまにか「当たり前」のこととして受け入れられていき、そのうち、その「異常な当たり前」は正当性まで獲得して、「規則だから守らなければいけない」というふうに自己目的化されていく。大江健三郎が、「人生の習慣habit of being」(講演「人生の習慣」)ということを言っていました。それは、《「決して無意識的に達成できるというのではないが、意識的に計画するというより、毎日の生き方の具体的な経験と希求とによって(中略) いつの間にかかもしだされる」「その人間がそのようであることの根本的なモード、スタイル、気風とでもいうべき」もの》です。
そのhabit of being、人間の根幹ともいうべきものが、「ものを言わない」や「仕方ないから諦める」や「忖度する」というような方向に向けて、徐々に形成されているとしたら、とても恐ろしいことです。思うに、このような状況は、子どもだけに限ったことではなく、先生たちもまた、同じような状況に追い込まれています。新たに、副校長・主幹教諭・指導教諭等を置いて教員の階層化を進め、職員会議を、校長の権限と責任の円滑な執行を補助する機関と定めるなど、国の教育政策は、教員間の闊達な論議を封じ自由な教育活動を抑制するような状況を、周到に作り出しています。
子どもも大人も、緩慢な全層雪崩のように、挙って「モノ言わない、従順な、忖度人間」へと己のhabit of beingを飼い慣らしていくわけにはいきません。現在の流れを反転させる営みを、たとえそれがどんなに小さなことであったとしても、自らが実践していくしかないと、改めて思います。《普遍的な人権は、ごく身近な小さな場所、世界のどんな地図でも見つけられないほど身近で小さな場所から始まる》(エレノア・ルーズベルト)



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月21日06:59

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