あだ名で呼ぶことを一律で禁じるってどうなの?(今朝の信毎秋山仁さんのコラム)

あだ名で呼ぶことを一律で禁じるってどうなの?(今朝の信毎秋山仁さんのコラム)

信毎教育欄の今朝のコンパスは、秋山仁さんの「仇名で呼ぶこと一律で禁じるのは‥‥モラル期待できぬ寂しさ」でした。同感です。たぶん文科省は「教師は学校で児童生徒の名前を仇名で呼ぶことはやめましょう」と当たり前のことを教職員に言っているのかと思いますが、仇名がいじめにつながるという懸念から、子どもの間で使われる仇名や呼び名まで一律禁止・・・というのは 違うと思います。
例えば教師が子どもを名前以外の呼び名で呼ぶと、それは差別やいじめにつながることがあります。学校と言う社会では、教師は子どもをきちんと本名で(さん付けで)呼んで欲しいです。教師と生徒の人間としての対等性を、教師から子どもに伝える最も基本的なことだと思うからです。

子どもには子どもの社会があります。本名なんか知らなくても一緒に遊んだり仲良くなったりもします。私たちの思い出の中にも、名前は忘れたけれど覚えている友だちがいます。あだ名や呼び名は思い出せるのだけれど・・・。「子どもの世界に介入するな!」と言いたいです。子どもの内心の自由にふみこんで「しぐさ」や「ふるまい」まで一律化しようとするのは、本当にやめて欲しいです。

教師に子どもがあだ名をつけたり、伝統的な呼び名を使ったりするのは、秋山さんが書いているように「親しみ」であり生徒同士の連帯感のような意味があると思います。面と向かって先生をあだ名で呼んだりするのはめったにないと思います。本当は尊敬も感謝もしているけれど、「教師」という側面だけでない人間性に関心があるからなのだと思います。尊敬する先生にもみんなあだ名がありました。本名に「さん」を付ける別格も。

秋山さんのように、自分に付けられたあだ名をふりかえってみたら、その時々にいろんなのがあり、その呼び名で呼ばれると「あ、高校の時の同級生だな」とか「大学時代のあのサークルの人だな」と思い出したりもします。ちゃんと由来や時代背景もあって貴重な思い出です。

教師時代に付けられたあだ名は光栄なものも悲しいものもありましたが、最後に付けられたのは「ばあさん」で、文字通りばあさんだったのでよろこんで呼ばれていましたが、何年もたってから長野駅の遠くの方から「ばーちゃん」と呼ぶ声がして、(ああ、誰かお孫さんがおばあさんを見つけて呼んでるんだな)と思っていたら、声の主が近寄ってきて「お久しぶりです!」と言われて驚きました。「あー!私のことか!」
そういえば自分も、高校の恩師にずっと後になって再会したとき、本名が思い出せなくてつい「***」と言ってしまいました。


Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2023年12月02日08:24

※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。

コメントを書く

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。