子ども白書掲載予定記事紹介⑫社会的養護の担い手としての里親とこどもの権利

長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑫社会的養護の担い手としての里親とこどもの権利

社会的養護の担い手としての里親とこどもの権利 
                 中信地区里親会 牟禮 孝貴

こども家庭庁が発足し、こども基本法の目的が「児童の権利に関する条約(以下「条約」)」の精神にのっとり、その権利の擁護が図られ」とされ、基本理念にも子どもの権利が明記されるなど「こどもまんなか社会」へのスタートがきられました。
一方で社会的養護の一部を担う養育里親の処遇については、まだまだ不十分な面もあります。令和5年10月には地方紙で「里親トラブル 立場弱く」の見出しで、行政側が一時保護に至った理由を里親に十分に示さず、突然里子と引き離された里親とトラブルになっている事例が県内外で数多くおきているという報道がなされたところです。こどもの権利を尊重した里子の養育とそれを担保するための里親支援、里親に求められる権利について現状と課題を考えてみたいと思います。

1 養育里親とは
  実親の病気など何らかの事情により家庭での養育が困難又は受けられないこどもを自らの家庭に迎え入れ、一時的に養育するのが里親です。里親家庭での生活を通じて、自己の存在を受け入れられているという安心感の中で、特定の大人との愛着関係を作りながらこどもの健全な育成を図る制度です。(条約第20条)里親は、親と離れて暮らす子どもの養育を担い、児童相談所はその里親・里子を支援すし、「こどもの最善の利益」(条約第3条)を目指すという協働関係にあると言えます。

2 里親養育におけるこどもの権利
(1)長野県の家庭養育の現状
 令和4年度末の里親等委託率は19.6%にとどまっており、約8割の子どもは依然として施設での養育になっています。家庭養育を増やすためには里親制度への理解を深め、実親の同意を得やすくする。受け皿となる里親の数を増やしていくなどの課題があります。
(2)生きる権利、育つ権利、守られる権利(条約第6条)
 里子のなかには食事が十分摂れていなかった、入浴していなかった、寝具で寝ていなかった等の厳しいケースもありますが、里親宅では、衣食住を確保した安全・安心な暮らしを提供し、こどものペースに合わせた暮らしを心がけています。国で決められている「里親が行う養育に関する最低基準」では、自主性の尊重、虐待や差別の禁止、教育、健康管理、衛生管理などが定められており、里親は、その最低基準を超えて、常に、その行う養育の内容を向上させるように努めることになっています。
(3)意見表明権(条約第12条)
 こどもが自分に影響を与えるすべての事柄について自由に意見を表明する権利を保障すると同時に、こどもの意見がその年齢および成熟度にしたがって尊重されるとされています。(100%こどもの言いなりになる訳ではありませんが)
 しかし、こどもは利害関係が強い人ほど本音は伝えにくいものです。正直に伝えると嫌われてしまうかも。一緒に暮らせなくなるかも。私ががまんすれば他の人を傷つけることにはならないかもなどの気持ちがあるからです。嫌なこと(虐待)をされていても言い出せないこともあるかもしれません。そこで、中立的な意見表明支援員がこどもの声を聞き、意見表明を援助することが求められています。現在、この「こどもアドボカシー」の仕組み作りが進行中です。里親家庭でもこどもの意思を尊重するようにしています。例えば里親の呼び方を決めてもらう、寝る場所を選択してもらう(和室の座卓の下を選んだ里子もいました)、学校で実名を使うか通称名にするかなどです。
(4)こどもの最善の利益(条約第3条)
 こどもに関係することを決めたり、行う時は、「その子にとって最もいいことは何か」を第一に考えるということです。児童相談所が措置決定する時はもちろん、里親家庭でも進学で特別支援学級、通級教室、通常のうちどの学級がいいのか。お手伝いしてもらうかどうか又その内容は。食事の内容は。ペット飼うかどうかなど様々な場面で考慮する必要があります。その際は2(3)のこどもの意見を聴き、尊重することも必要になります。

3 養育里親への支援と里親の権利
(1)里親支援機関(フォスタリング業務)について
児童相談所、民間のフォスタリング機関(令和6年4月から「里親支援センター」)が里親支援を包括的に行っています。その内容は・里親制度等普及促進・リクルート業務、・里親研修・トレーニング等業務、・里親委託推進等業務、・里親訪問等支援業務、・里親等委託児童自立支援業務などです。
(2)里親訪問等支援業務
この業務は、里親不調を防ぎ、安定した養育を継続できるように様々な支援を行います。支援には未委託期間中及び委託解除後のフォローも含まれます。通常の相談業務や里親同士のつながりを深める里親サロンの開催に加え、相談員が定期的に里親宅を訪問し、里親や里子から生活の様子等を聞き取ります。家庭訪問は、里親にとって、悩みを相談したり、普段の養育をふり返る貴重な機会にもなっています。
(3)里親支援の課題と里親の権利
受託する際に、里子の特性や成育歴などの情報が児童相談所から提供されない。自立支援計画の内容が十分でないなどの指摘があります。中途からの養育なので手探りでのスタートになるのは致し方ない面があるものの必要な情報は出してほしいという声や、相談時間は平日の日中に限られることが多いが、休日夜間に相談案件が発生することが多く、いつでも相談できる体制が望ましいとの声が出されています。
また、新聞報道のように里親と児童相談所の間で「こどもの最善の利益」をめぐって意見が異なるケースもみられます。意見が対立した時は里親側の立場が弱く、不本意だとしても措置解除を受け入れざるを得ません。
里親は親権を持っていませんが、一定期間親の代理として養育しており、里子のウエルビーイングの観点から措置変更に関する意見を表明し、尊重される権利が必要だと思われます。
(4)措置解除後のフォロー
措置解除は里親にとって喪失感を生みます。特に予定外の解除の場合はなおさらです。里親の喪失感についてのフォローが適切になされなければ、解除の決定を行った児童相談所との関係が不安定になり、次の里子の委託が滞ることもあります。
また、措置解除によって里子とは他人(知人)の関係になり、現状ではその後の暮らしを知る権限がありません。里子が希望し、保護者が同意すれば解除後の交流を認める権利も必要だと思われます。今後の生活を応援しているよと伝える(会話や手紙)機会を設けることは里子にとっても大切だと思います。

前に述べたとおり、里親と児童相談所は「こどもの最善の利益」を目指すという協働関係にあります。普段から連携を密にし、信頼関係を構築し、里親トラブルを未然に防ぐ努力が双方に求められています。

<参考>里親家庭の「おわかれ」にかかわる3つの視角
    三輪 清子(明治学院大学)福祉社会学研究 17から抜粋
里親自身からは、措置変更(実親との交流開始のため児童養護施設に措置変更されたが実家庭に長期間戻れていない事例)になった時のことが以下のように語られた。
F夫:これだけ里親認定前研修受けて、一生懸命資格を取って、やろうとしている人に対して.実際にやっていて「明日でおわかれね」という電話一本で言って、車来てビューと持っていくみたいな。涙ぽろぽろになるわけじゃないですか。三日三晩寝込むとか。
F妻:そう。縁を切られる。せっかくつながったのに、やっぱり切られてしまう。
里親からは措置変更によって、つながりが切断されることにより、大きな喪失感を抱えることが語られた。同時に「ではどんなことがあれば安心か」という問いに対しては、以下のように語られた。
F妻:私らは「元気にしていますよ」という一言でほっと安心する。もう喜んで、写真一枚でも親子の写真見せてもらったらすごいうれしいやろうし。うそをつかんと、正直に伝えてくれたら安心かな。
里親からは、喪失感は消えないかもしれないが、子どもが幸せに暮らしていることがわかれば、安心すると語られた。里親自身は、児相と里親の関係をどう捉えているのか。
F 妻:「私ら将棋の駒と一緒やな」と思うことがしょっちゅうあって.利用されているという言い方もおかしいねんけれども、あの人らと喋るとそういう風な感じに捉えてしまう。


Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月23日07:53

2024長野の子ども白書拡大執筆者会議「子どもの声を聴き届けたい」を開催

2024長野の子ども白書拡大執筆者会議「子どもの声を聴き届けたい」を開催

昨日、オンラインで2024長野の子ども白書拡大執筆者会議「子どもの声を聴き届けたい」を開催しました。
執筆者の方始め多くの参加者を得て、充実した会議になりました。ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。
リアルな紙媒体の情報誌「長野の子ども白書」ですが、無償のボランティアで執筆して下さる方は広い長野県全体、あるいは他県にお住いの方もあり、これまでリアルにお集まりいただいての「執筆者会議」は、なかなか多くの参加者を得ることがむずかしい状況でした。4年前のコロナ感染拡大による外出自粛が始まって以来、「オンライン開催」を試み、思いがけず多くの参加者を得られたことに「新しい時代」を実感しています。
それでもなかなか「オンライン開催」に馴染めず、コロナの5類移行を機に「リアル開催」を再開してみていますが、どちらの利点も感じつつ、今回のように「オンライン開催」することで、多くの方にご参加いただけたことや、事前に情報を共有できたことなどでふかまりある話し合いができたことなど、今後もまた活かしていきたいと思います。
因みに、個人的に時代遅れの70台は、この「オンライン開催」を計画するとなぜか不安で息苦しくなり、決まって開催前に発熱することが常となり、今回も、夕方開催のため前日から当日の朝にかけて発熱し、午前中の仕事もふらふらしながら務め「こんなことで会議はできるのか?」と不安でしたが、よくよく考えたら、オンライン開催で自分がやれることなどひとつも無く、すべて事務局や編集室の方がやって下さるわけで、いざ1時間前に入室してみるとウソのように熱が下がりドキドキが収まりました。余談でした。

すでにこのブログでも共有した何人かの執筆者の掲載予定記事はどれも読みごたえがあり、それだけで多くの発信がありますが、それらが同時に執筆者から語られると、また大きな相乗効果を発揮するのだと驚きます。さらに参加している方々の短いコメントの中にも、多くの読者が感じるであろう「じぶんごと」としてのテーマへのアプローチがが感じられ、また多くの刺激や可能性を発見できました。

「長野の子ども白書」がめざす「子どもの声を聴き届けたい」と言う願いは、どんな声を、だれが聴き、よくその願いを訊き、どれほど大事なことであるかを受け止め、子ども自身が行動に移す、実現するところまで応答することなのだ・・・と再確認。
まずは、もはや小さくはない「不登校の子どもたちの声」にどのように応答するのか・・・糸口は見えてきたと感じました。

ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月22日07:43

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑪人権、子どもたちの現在(2)

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑪人権、子どもたちの現在(2)


人権、子どもたちの現在(2)
 子どもの支援・相談スペース「はぐルッポ」スタッフ 斉藤金司

この国は、いったい、どこに行こうとしているのだろう、関東大震災時の朝鮮人虐殺を「政府内には事実関係を確認することのできる記録が見当たらない」(2023.8.30)と言い張る松野官房長官の言葉に、自分は暗澹たる気持ちにならざるをえませんでした。しかも、このような言説が、多少マスコミで批判されはしても、結局はそのままスルーしていくのが、この国の現在です。
 コロナが5類になって、久々に孫たちが来て、こんな学校の話をしてくれました。東京の公立中2年の孫は、生徒会の役員の一員として、女子から要望の強い「三つ編み禁止」という校則の撤廃を求めて先生のところに行ったそうです。「先生たちは、できないって言った」「どうして ?」「高校入試の面接の時、まずいって」「面接のとき、三つ編みにしていかなければ、いいじゃんな」「ううん、そう思うけど、先生たちは今から準備しておかなきゃ、いけないって」「それで、納得しただ ?」「しない、言い訳じゃん」「じゃ、納得できないって言えばいいじゃん」「だって、それ以上言っても仕方ないじゃん。今は言えないよ」(彼は、忘れ物の天才。一つ忘れ物をすると、1点減点すると担任に言われているとのことです)「じゃ、いつ言うだ ? 」「大人になって、言えるようになった時、言う」埼玉の公立高2年の孫も、中学高校ともに三つ編みは禁止でした。「そのことどう思うだ ?」「特に「三つ編みにしたいと思ったことないだ ?」「特に。規則だから」こんな会話をしながら、自分にはコトンと胸に落ちるものがありました。ああ、このようにして、子どもたちは「もの言わない」子どもに育っていくのだ !学校では、先生と子どもはいまだに権力関係にあって、そこでは、子どもたちの本質的な問いも、こんなふうに適当にはぐらかされて封殺されていきます。なかには、彼女のように現状を「当たり前」のこととして、問うことすら既に諦めている者もいます。
「はぐルッポ」の子どもや保護者の話を聞くと、いかに学校が、日常的に子どもの人権を軽んじているか、気づかされます。
学校は、「一人ひとりを大事に」「個に即して」などと謳いながら、じつは、「みんな同じ」「みんな一緒」という原理で動いています。その結果、子どもたちは、いつも強い同調圧力の中で「ねばならない」「であるべきだ」にがんじがらめに縛られています。そして、それらが「ちゃんと」できない場合、こんな形で指導されます。
「問い詰める」=「何回言われたらわかるの」
「言いくるめる」=「お前のために言ってるんだ」
「恥ずかしめる」=「みんなの前で謝れ」
「怒鳴る」=「なんで、そんなことができないんだ」
「脅かす」=「これ以上休むと、評定つかないから行く高校ないよ」
「見捨てる」=「わかった。もう、勝手にしなさい」
「差別する」=「そんなことしてると、○○学級(特別支援学級)へやっちゃうぞ」
挙げればきりがありませんが、日本の学校は、ずーっとこんな感じで(自分もそうでした。弁解の余地はありません)子どもを管理してきたように思います。「なぜ日本では子どもの人権がこれほど軽んじられるのか」(Eyes1041 『AERA』2023.11.17)という問いに、内田樹はこんな仮説を立てていました。「敗戦後から1960年代末まで日本社会は子どもへの権限移譲にきわめて前向き」で「子どもたちは児童会や生徒会で学内のルールを決めることができた」。「だが、60年代末に全国学園紛争が起きて、日本中の多くの大学が一時期無政府状態に陥った。このトラウマ的経験を通じて、『子どもに権利を与えてはならない』という確信が右派の人々に刷り込まれた。以後半世紀『子どもに権利を与えてはならない』という恐怖症が自民党政治には伏流している」この仮説の当否はわかりませんが、しかし、この「伏流」は、今、確かな流れとなって地表に現れています。
教育基本法を改正して「我が国と郷土を愛する心」を教育の目標に加え、教科「道徳」を導入して子どもの内心のあり方にまで踏み込み、そして、「学びに向かう力、人間性等」を教科の評価に加えるなど、文部科学省は、「人間」としてのあるべき「典型」を示して全ての子どもをその中にはめ込み、その基準によって評価しようとする動きを強めています。まさに、白井明大が「この30年間、人権意識や平和主義や民主主義がどれだけ後退させられてきたか、ひしひしと伝わって」(『日本の憲法 最初の話』)くると言う、その言葉通りの状況が加速しているのです。
道徳の教科書(小1)に載っている「かぼちゃのつる」には、呆れました。
《他者の忠告も聞かないで自分勝手にどこにでも伸びていくかぼちゃのつるが、最後には人間の曳く荷車に轢かれてつるを切られ、涙をこぼして泣く》このような教材で、子どもたちは「節度、節制」を学び、「身の回りを整え、わがままをしないで、規則正しい生活をすること」を学ばせられています。だが、ここにあるのは、自由気ままに伸びて行くことはつるの必然であり個性でもあるのに、それを一刀両断に悪とする善悪二元論です。悪い者は、その命を奪うほどの暴力で痛めつけてもいいという暴力肯定論です。そして、悪いことは、報いを受ける受けないにかかわらず悪いことであるのに、悪いことをすれば罰が当たるという因果応報論です。なんというご粗末な教材、痩せた教育でしょう ! 
 その上、このようにして学習された子どもの内面は、先生によって、「公的に」評価されます。既に、「観点別の評価」によって、授業中の態度や教科に対する意欲まで評価されていますから、子どもたちは、ますます、常に気を張りつめながら子どもらしくないふるまいをせざるをえなくなります。 『東洋経済オンライン』(2023.2.24)は、有名公立高校に合格した女子生徒が、調査書の内申点を挙げるためにしたけなげな努力を紹介していました。「大切なのは、提出物を全部出すことと、積極的に授業で発言すること。得意教科の係になって先生に顔を覚えてもらうこと。あとは、10日以上連続の欠席をしない、先生に反抗しない、ふざけない、あいさつをする」「集団行動が苦手なので、部活をやっておらず、内申がつかない。だから生徒会をやることにしました。あとはウチの親がPTA役員をやって、“あの先生はこういう性格だ”と教えてくれていましたので、親子で先生の性格を考えながら、ぶっちゃけ“媚び”を売っていました」こうして、子どもたちはまるで「忖度人間」です。このような学校生活が、子どもたちに与える影響の深さに自分は強い危惧を覚えます。子どもは先生の要求するところを納得いかないまま受け入れて習慣化していく。その結果、本来異常であるはずのことがいつのまにか「当たり前」のこととして受け入れられていき、そのうち、その「異常な当たり前」は正当性まで獲得して、「規則だから守らなければいけない」というふうに自己目的化されていく。大江健三郎が、「人生の習慣habit of being」(講演「人生の習慣」)ということを言っていました。それは、《「決して無意識的に達成できるというのではないが、意識的に計画するというより、毎日の生き方の具体的な経験と希求とによって(中略) いつの間にかかもしだされる」「その人間がそのようであることの根本的なモード、スタイル、気風とでもいうべき」もの》です。
そのhabit of being、人間の根幹ともいうべきものが、「ものを言わない」や「仕方ないから諦める」や「忖度する」というような方向に向けて、徐々に形成されているとしたら、とても恐ろしいことです。思うに、このような状況は、子どもだけに限ったことではなく、先生たちもまた、同じような状況に追い込まれています。新たに、副校長・主幹教諭・指導教諭等を置いて教員の階層化を進め、職員会議を、校長の権限と責任の円滑な執行を補助する機関と定めるなど、国の教育政策は、教員間の闊達な論議を封じ自由な教育活動を抑制するような状況を、周到に作り出しています。
子どもも大人も、緩慢な全層雪崩のように、挙って「モノ言わない、従順な、忖度人間」へと己のhabit of beingを飼い慣らしていくわけにはいきません。現在の流れを反転させる営みを、たとえそれがどんなに小さなことであったとしても、自らが実践していくしかないと、改めて思います。《普遍的な人権は、ごく身近な小さな場所、世界のどんな地図でも見つけられないほど身近で小さな場所から始まる》(エレノア・ルーズベルト)




Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月21日06:59

長野の子ども白書掲載予定記事紹介⑩「子どもたちの叫びは今、何処に

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑩「子どもたちの叫びは今、何処に向けられているか」

「子どもたちの叫びは今、何処に向けられているか」
   ~「子ども基本法」に期待する意識改革~
               多部制・単位制高校教諭 特別支援教育Co 北原恵美

多様な学びの場としての選択
 特別支援教育が制度として高校に導入された2008年、長野県では多様な学びの場として多部制・単位制高校が再編されスタートしました。当時、県立高校に新たな枠組みができたことは特別なニーズをもつ子どもの保護者や小中学校の特別支援に係る教師には大きな期待がありました。多部制・単位制高校は個々に応じた完全なフレックス制ではありませんが多くの夜間定時制と同様に、全日制課程に比べ少人数の学習環境が保障される形となり、大集団の中で生きづらさを持つ生徒、中学までに不登校経験のある生徒など、同じ思いや体験を持つ仲間と共に過ごすことに安心感がありました。午後を中心とした部では自分なりの時間の使い方ができることから、ゆっくりとした育ちを重ねてきた子どもにとって4年間(3年で卒業も可)の高校生活は、卒後の進路についても慎重に展開できます。教職員は生徒理解を深め「わかる・参加できる授業づくり」の研修を継続しています。しかし、小人数の学習環境と相談窓口の充実があっても、必ずしも多部制・単位制高校が全ての生徒にとって最適な学びの場であるとは限りません。在籍生徒に発達障がいやその他の障がいを持つ生徒の割合は高く、集団になじまない生徒同士の関わりの難しさや、少人数集団ゆえに起こる関係性のこじれなど、何処であっても起こりうる問題は日常的に起こります。
ここ数年の傾向として、全日制高校を含めた県立高校では入学した在籍生徒の転学、休学数の増加があります。選抜試験を経て希望に満ちて入学したはずの高校ですが「学校に毎日は通わない」という学び方の選択から通信制高校へ転学する流れも複数あります。このことを子どもたちの「逃げ」とは捉えず、通信制高校のしくみや自由度の高さなどの魅力を学校が学ぶことはあるのと感じています。

自分と出会いなおす思春期を大切に
 現在の高校生は、幼少期より特別支援教育の理解のもとで育ってきました。個々のニーズに添った支援が高校入学後に継続困難となり、理解はあってもフォローは届かず苦しむ事例が結構あると感じています。また、幼少期に障害者手帳を取得している場合の進路についても同様に、ステージの変化は本人の発達段階や自己理解の上に決定され、具体的な場面設定や先の見通しなどについてはその都度本人を主体とした話し合いを持てることが理想です。家庭、学校あるいは地域の支援者の助言が本人の持つ可能性と一致しているのか懸念があります。歩み出した道の修正はたとえ遠回りになっても誤りとは言えません。成人年齢を目前として青年期を過ごす高校生と学校生活を共にする中では、当然のように“自分の特性との出会い直し”“自分とは何者か”に気づく大切な時期であるように思います。毎日の勉強が苦しい。来たい学校じゃなかった。親が決めた進路が不安。もやもやして不機嫌、気力がわかず動けない、言葉でうまく説明できないので反抗的、消えてしまいたい気持ち・・。何かを選択決定する場面やパフォーマンスを求められる場面では顕著に表出します。大切な家族の歴史(育ち)との葛藤、自己を受け入れる事の苦しみなど様々です。現状に満足できずに身体症状に表れる生徒もいます。彼らの「権利」としての主張をどこで受けとめてあげられるでしょうか。

◆コロナ禍以降の変化、結局は子どもが犠牲となるのでは
アフターコロナと言える今、コロナと同時に押し寄せた教育改革の波に飲み込まれ「コロナ禍の数年を過ごした子ども達」はコロナ以前とは違ってきていると捉えています。生徒自身の変化とともに家族のあり方、大人の考え方が多様化したこと、家庭生活の変化もあります。貧困、DV、ヤングケアラーに直面している高校生もいます。ネグレクトなど愛着の問題に起因する人との関係性のトラブルや適応障害。自分を守るため他者に向けた攻撃や自身に向ける自傷行為など多岐にわたり学校には混在します。
教育に求められるものにも変化がありました。公教育においてはICTによる教育内容の変化に現場の教職員が追い付けない実態があり、学校により充足度に格差があります。教師は現在の方向性が正しいか否かを考える時間や検討する機会を作り出せないままに予測不能な社会を突き進んでいる実感があります。求められている「学校」の形を問い直す時期にあることを認識しながら「学校(公教育)」の本質は変わらずに、新しい学びのあり方に教師はただただ奔走している実態があります。

子どもの権利条約が教えてくれたこと
 戦後の長い歴史の中「児童憲章」「児童権利宣言」によって行政は動きました。さらに、かつて国連「子どもの権利条約」の批准は大きな転機でした。高校生(では遅すぎますが)自身が自分事として「子どもの権利」を学ぶ必要があること、これからの大人としてふさわしい「児童観」「子ども観」を持つことを願い続けました。子どもの権利条約により具体的に権利の主体として子どもに目を向けたことは、教師としての子ども理解、こども観、教育の方向性、役割を学ぶことに繋がりました。長野県の高校ではかつて自主教材によって授業の中に人権教育と共に、主権者を育てる取り組みがありました。学校の役割が保障されたようで安堵感や教育に解放感があった時代でした。しかし、「子どもの権利条約」批准から29年、昨年はNGOの教員向け調査で「子どもの権利条約を知らない教師が3割」との報道があり個人的には大きな衝撃を受けながら、納得できる内容でもありました。高校では基本的な権利教育は発展しないまま、未だに多くの学校で平和・人権教育、命を守る教育、性教育は単発で行われますSNSなどによる生活の変化に伴う新たな情報教育、包括的性教育、特別支援教育などすべての場面において権利教育は幼少期から継続的な積み重ねが必要です。ただし、現在多くの教師には基本的な権利教育を行う力が足りていません。日本の学校教育の構造に人権教育の考え方はなかったこと、教師自身の育ちにも学校で様々な障がいを共有できる機会が極めて少なかったことの弊害です。「みんな違ってみんないい」は合言葉のように心に響きましたが、実際には足並みをそろえた一定の評価が最重要の学校教育であったことに違いありません。

教育行政も、学校も、社会全体で今度こそ「一人の子どもも取り残さない」
 2023,4月「子ども基本法」によって漸く国内法に基づき地域行政と学校との連携も強化されました。学校の「生徒指導提要」も改編され「すべてのこどもは生まれながらにして権利の主体である」ことから学校には教育システムの転換が必要です。経済優先の社会の流れは教育や福祉が様々な場面で市場化され、子どもにとって「学校へ行くか行かないか」「公教育か私学か」の選択以外に「学びの場」「居場所の提供」などの選択肢は格段に増えました。すべてのこどもに学ぶ機会は保障されていること、選択の自由があることから、急激に広がった選択肢の提供が子どもにとっての「最善の利益」となることを祈るばかりです。長野県の特別支援教育推進計画では一人の子どもも取り残さない「多様性を包み込む」学びの環境を作ることを施策の柱として高校における「支援力の向上」「ニーズに応じる仕組みづくり」「卒業後を見据えた地域の多様な支援機関との連携強化」について具体的な方向性を示しています。また、国はこれまでの学校教育前提の学びのあり方から「子ども主体」の理念に基づき子どもの権利を守り、最善の利益を重要視するインクルーシブな学び、多様な学びの環境をさらに広げようとしています。2023,12月には「こども大綱」が閣議決定されました。世界の情勢では国際ルールである「国連」の力も目に見える形では届いてきません。悲しい現実です。子どもたちに届くものは大人への批判ばかりとなります。もしも、29年前に子どもの権利条約をまるごと受けとめた教育が開始されていたなら、おそらくすべての子どもたちの自己肯定感はもっと高くなっていたことでしょう。
ひとりの生徒がノートに書きました。(本人の了解済)

「もう死にたい。死んだほうがいい自分。
自分が存在する理由がわからない、生きていても何もない、生きる必要もない誰か殺して、誰でもいいから殺して。すべてなくなれ。」

「人前で笑うの疲れた、家族、友達、先生すべて相手にするのに疲れた。
学校嫌い、人嫌い、自分嫌い、全部嫌い、他人も嫌い何もかも嫌い。すべて無になれ。楽しいことない。すべてを忘れて無になりたい。」

言葉が胸に刺さります。「自分が権利の主体」であることを知らずに育ってきました。
学校だけで抱えようとせず、何処とつながり何ができるのかを関係機関のみなさんと共に丁寧に考えていきます。「こどもは社会に守られる」・・急がなければなりません。



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月20日07:17

長野の子ども白書掲載予定記事紹介⑨子どもの意見表明権を支え保障する大人

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑨子どもの意見表明権を支え保障する大人たち
                        

子どもの意見表明権を支え保障する大人たち
           東京都立大学大学院客員教授  宮下与兵衛

はじめに
 今年3月末に『若者とともに 地域をつくる 学校を変える 社会・政治を変える』(かもがわ出版)という本を出版しました。
 この本では次のような日本の若者の実態を書きました。選挙に行く若者は3人に1人、多くの若者は社会や政治に関心がなく、地域活動や社会活動に参加しない。今の高校生・大学生は授業で発言しない・議論ができない、それは中学から始まっている。こうした若者をつくったのは新自由主義によるもので、新自由主義はなぜこうした若者を生んだのか分析しました。しかし欧米の若者は2011年からこうした状況から脱出し、その後は「世界の若者たちが社会変革を担う時代を迎えている」(NHK「2030未来の分岐点」)といわれるような、気候変動防止行動などのさまざまな社会活動に立ち上がっています。なぜ欧米の若者は社会活動に立ち上がることができるのに、日本の若者は立ち上がることができないのか。その違いを生んでいるのは学校教育にあることをこの本で分析しました。欧米では学校に民主主義と自由があり、子どもたちが校則づくりなどの学校運営に参加できる、また民主主義と政治について現実の社会問題を授業で学ぶことができるシティズンシップ(民主主義的な市民を育てる)教育があります。それに対して、日本の学校は規律と管理による教育で自由と民主主義がない。また、子どもの権利条約で保障されている意見を言える権利・意見を聞いてもらえる権利がなく、生徒会で話し合って決めた校則改善の要望は多くの学校で理由説明もなく学校から拒否されて子どもたちは挫折感を持ち、自己肯定感を下げ、「学校も社会も変わらない」という意識を形成してきています。

⒈ 「こども基本法」で学校を変えるには
 こうした学校の在り方、特に「ブラック校則」とまで言われる人権侵害の校則が社会問題になり、子どもの権利条約を政府は批准してから30年たってようやく国内法にせざるを得なくなりました。2023年にスタートした、その国内法「こども基本法」では、子どもの権利条約の「意見表明権」を学校でも社会でも保障することとなり、学校の「生徒指導提要」という生徒指導の基本書も改定されて、校則などを子どもの意見を聞いて改善することとなりました。しかし、その後の学校現場の様子を聞いていくと、子どもたちの声をアンケートなどで表面的に聞くだけで、「子どもの声を聞いている」と教育委員会に報告して済ませている学校が多いようです。さらに、「こども基本法」ができて子どもの声を学校が聞かなくてはならなくなったことをほとんどの子どもも保護者も知りません。学校が「こども基本法」について知らせていないからです。これでは、今まで30年間にわたって「子どもの権利条約を知らない子ども・保護者」だった日本の学校は全く変わりません。
 それでは、こうした状況を変えていくにはどうしたら良いのでしょうか。教職員が「こども基本法」と「子どもの権利条約」の学習や研修をすることから始めなくてはなりません。しかし、多忙化の中で子どもたちと対話する時間もない教職員に、自主的な学習や研修を求めることはなかなか困難です。また文科省や教育委員会がその研修を教職員や保護者・生徒に保障すれば良いのですが、そうした動きは見られません。法律ができても学校や教育行政が動かないなら、子どもの声を大事にしようという意識ある教師や保護者や生徒が立ち上がらなくてはなりません。私たち教育研究者たちと「三者協議会」などの学校運営への生徒参加に取り組んでいる学校の教職員や保護者や生徒でつくっている「開かれた学校づくり全国連絡会では、生徒の声を保障する取り組みを交流しながら全国に広げる活動をしています。ぜひ、みなさんもホームページをご覧いただき会員(会費は無料です)になってください。ホームページは下記です。
https://sites.google.com/view/hgzenkokuren/             
 
⒉ 小中学校でのいじめ・不登校急増の原因
 全国と同じく長野県の小学校でもいじめが急増していて10年連続で過去最多を更新しています。これは、生活スタンダード、学習スタンダードという、みんな一律に同じ生活規律と学習規律を守れということを強いる同調圧力指導の広がりと軌を一にして急増しています。それが子どもたちのストレスとなり、ストレスからいじめが起きるのです。また全国と同じく長野県の小中学校でも不登校が急増していて、長野県は全国でワースト4位です。さらに20歳未満の自殺死亡率は2021年までの5年間で福島県に次いで全国で2番目の高さです。大学の教育学の授業で、中学校で不登校が急増している原因、中学校から授業中に発言しなくなる、話し合いができなくなる原因について議論し、学生たちが言ったのは次のことでした。まず子どもが自由に発言して受けとめてもらえる環境については、校則などの改善は「規則だからダメ」と拒否されて聞いてももらえないと多くが述べていました。中学になると授業で発言しなくなるのはなぜかということについては、まず「正解を言わないといけない」という「正解主義(間違ってはいけないという考え方)」が心を圧迫しているということです。さらに「観点別評価」で「関心・意欲・態度で評価される」と言われているので、「手を挙げて発言すると、成績を上げるためにしていると思われるのがイヤで、答えが分かっていても発言しなかった。発言すると、いじめにつながるかも知れないという不安もあった」という学生が多かったのです。こうしたことから発言も話し合いも自分からはしないということで、これが高校まで続き、「大学に入ってゼミで発言できないと評価されないので困っている」ということでした。つまり、多くの学校では自由に発言して教師に受けとめてもらえることも、安心して積極的に発言できることもないということなのです。そして、「正解主義」も「同調圧力」も学校が子どもたちに強いていることなのです。「観点別評価」は新しい学習指導要領で小学校でも高校でもやらないといけないことになり、現場は混乱しています。私はこれで小学校の時から発言することがなくなるのではないかと心配しています。

⒊ 子ども・若者の意見表明を支える大人たち
学校改善や地域づくりで子どもの意見や要求を保障していくには、教職員の実践と、行政の取り組みと、保護者の学校への要請や子どもへのサポートが必要です。今度の本では、そうした取り組みの欧米の実践例や国内の優れた実践例を紹介しました。学校における校則などへの生徒の意見の尊重、学校運営への生徒参加についてはこの子ども白書でも紹介してきた辰野高校の三者協議会などを紹介しました。地域づくり、行政への生徒の意見表明、要求行動については2018年にこの子ども白書でも紹介された松本工業高校の生徒たちの松本市議会への請願行動を紹介しました。この取り組みは授業で学んだ憲法で子どもにも保障された「請願権」を実行したものです。松本深志高校の生徒たちは、学校の周辺の住民からの部活動による騒音で迷惑しているという苦情に対して、生徒と教職員と地域住民(学校周辺の5つの町内会会長)の三者による話し合いの場である深志高校地域フォーラム「鼎談(ていだん)深志」をつくり、定期的な話し合いを続けて、部活動への理解を深めてもらう取り組みをしています。辰野、松本工業、深志の3校の取り組みは高校の新しい公民科科目「公共」の教科書(東京書籍、教育図書)に掲載されています。このように高校生の学校運営参加と社会参加の取り組みが公民科の教科書に掲載されている他県の実例はなく、長野県の高校生の取り組みが注目されています。私の本では、岡山県の県立高校で毎年生徒たちが市議会に陳情行動をしている取り組み、別の岡山の高校の生徒たちがクラウドファンディングで集めた212万円と署名を添えて生活苦の生徒のために「全県の高校のトイレに生理用品を設置すること」を陳情し、県議会全会一致で採択された取り組みも紹介しました。
 
 ⒋ 自治体の取り組み―子ども議会・若者議会
 自治体が子ども・若者の地域づくりや行政への参加を保障している取り組みとしては子ども議会や若者議会が全国的にあります。全国の中で最も子ども・若者の参加を尊重している自治体は山形県遊佐(ゆざ)町と愛知県新城(しんしろ)市の取り組みで、本で紹介しました。この2自治体は子ども議会、若者議会がまちづくりで政策化したものに予算をつけて実現できるというもので、新城市の場合は人口4万人という小さな市ですが、年予算一千万円までつけています。この取り組みで、遊佐町は若者の選挙の投票率が全国トップレベル、新城市の場合は若者議会経験者が市会議員や市役所職員、まちづくり活動家に次々に育っています。社会への関心が低く、欧米の投票率の半分しか選挙に行かない日本の若者を主権者に育てていくには、子どもの意見表明と参加を保障していく学校や自治体の取り組みが求められています。



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月19日07:49

2024掲載予定記事紹介 ⑧自然との関わりの中で暮らしを育む子どもたち 

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑧自然との関わりの中で暮らしを育む子どもたち 

 1週間、21日の拡大執筆者会議に向けて7本の掲載予定記事を連載しました。「不登校」に関わる記事、「子どもへの応答」に関わる記事は、特集編としてデジタル編集中です。ご希望があれば後日販売予定です。
 さて、不登校の子どもたちの「声」を通して、何が子どもたちを生きずらくし、学校を不安な場所にしてしまっているのかが、かなりはっきりと伝わってきます。そしてとても心苦しいのは、どうやら大人社会が抱いている学校教育への期待と、それを実現しようとする教育政策や教育現場のシステムや体質が、実は「子どもの最善の幸福=いましあわせ」を阻害しているらしいという気づきです。一番身近にいる教師も、子どもを育てている保護者も施設や地域の大人も、みな「良かれ」と思ってかけている言葉や手助けが、ますます子どもを息苦しくさせてしまう。昨日ご紹介した彩桜さんの記事は、そのことを見事に発信し、両親は「弟の不登校に出会ったことで私に自由な選択肢をくれた」と書いています。
子どもの毎日の「たのしい暮らし」こそがその豊かな「心」を育むのだ・・・と、保育園「山の学び舎はらぺこ」の園長さんは語ります。

自然との関わりの中で暮らしを育む子どもたち 
―山の遊び舎はらぺこの子どもたちの姿からー
  認定こども園 山の遊び舎はらぺこ園長 小林成親 

はじめの一歩
2005年4月に「山の遊び舎はらぺこ」は長野県伊那市の小さな山のなかで産声をあげました。20年前の事です。
初年度は3才児から5歳児までの13名。お金があるわけでもなく、開園のための準備などは不十分なことが沢山ありましたが、知恵と人の力で整えていきました。園舎としてお借りした建物には、水道施設がありませんでしたが、お隣のおばあちゃんのお家の外水道からいただくことができたので毎日水のタンクを抱えながら運びました。蛇口から当たり前に出てくる水しか知らないものにとって、ポリタンクの限りある水をやりくりしながら大切に使う日々は驚きとともに身近な環境、そしてさらに少し大きな世界を知る入口となりました。

山のなかでの暮らし
 子どもたちは新しい環境に対してもかなり積極的に動き遊びを見いだしていきました。全員が新入園児という特殊な状況でしたが、毎日毎日繰り広げられる遊びは様々で、日々発見の連続で愉快な時間でした。山のなかでの散歩道はけもの道を中心としたものでした。かなりの傾斜のところでも細く踏み固めて続くけもの道は、最初の頃は子どもたちにとって歩きやすい道とはとても言えませんでしたが、しばらくするとそんなことは何でもないといったふうに軽々と歩く姿がありました。毎日山のなかを歩いて遊んでいると会話の中で「このあいだいったあそこのばしょ」というような言葉が子どもたち同士でも子どもと大人同士でも聞かれるようになりました。「あそこ」とはどこか?お互い説明するのにもどかしさを感じながらの会話でしたがそのうちに「このあいだオレンジのきいちごとったところ」とか「タヌキが死んでいた場所の向こう」とか、その場所その場所の特徴やみんなで共有した出来事から地名がうまれはじめました。「きいちごてんごく」「たぬきのところ」「こいのいけ」など後々でも使い続けることになる名前(地名)が生み出されました。体験を積み重ねた結果として、子どもたちの頭の中には自分たちのフィールドがしっかりと地図になっているのではないかと感じた出来事でした。そして広い山のなかを網の目のように遊びまわっていることそのものが彼らの日々であり暮らしなのだと実感をしました。

なぜ自然との関わりが大切なのか
 自然との関わりを中心とした保育で育まれるものとして「逞しさ」や「柔軟性」、更には「主体性」という言葉が自然保育の中ではよく聞かれますしそのイメージも強いと思われます。「非認知能力」を高めるといったエビデンスも数多く世に出ています。それは確かに実際の子どもの様子からも見取れる面としてはお伝えしやすい側面でもあります。しかしながら、それは子どもたちの育ちの結果の一部に過ぎないとも感じています。少々大げさな表現かもしれえませんが、私たちは幼児教育とは「子どもたちの心をはぐくむ」ことだと考えています。「心」とは何かという事においては諸説様々な考え方がありますので、とても曖昧な事柄に感じてしまう方も多いかもしれませんし、また実際「正しい心の育て方」などというメソッドは存在しないと思いますが、だからこそ様々な「体験」がこどもの育ちにとっては大切なのだと考えています。そしてそれは私たち大人も含めてそもそも人間も「自然」の一部で、自分という心と身体の内的自然の中へどう外的自然を取り込んでいくか、また心のはたらきとして「私」という中にはたらいている心と、「私」と「あなた」のあいだではたらく心があるのだろうと考えています。それはそのまま「個人」と「社会」という現象に当てはまるのではないかと考えます。大人の計画した通りの世界の中で子どもたちがその線をなぞることも子どもの育ちを支える事ではありますが、その中でこどもたちの心は十全と豊かにはたらいているのだろうか。自然との関わりの中で毎日毎日偶発的な出会いを体験しながら心を揺らしている子どもたちの姿に「豊かさ」を感じています。

幼児教育に「暮らし」は必要?
子どもたちの毎日の活動の土台になっている部分を私たちは「暮らし」と呼んでいます。「暮らし」は「根っこ」ではないかと考えています。人が生きていく道筋をつなげていくもの。「いのち」をつなぐもの。「きのう」と「きょう」と「あした」をつなぐもの。過日、大妻女子大の久保健太氏からは「暮らしとは、暮れるまでにすること。移ろうもの。朽ちていくもの、芽吹くもの、枯れていくもの、そのうつろいに即して生きること」とお聞きしました。その日その日の出会いに心を揺らしながら自分たちの遊びをつくり出し仲間と共有し笑い合う。相手の痛みを想像しその時の精いっぱいの言葉をかけ合う。理屈めいてしまいますが、実際の子どもたちの毎日はとてもシンプル。「暮らし」のなかで子どもたちはその時その時をどうやったら楽しめるのか、ということの繰り返しの中で育ちあっています。

そして20年
 2歳児から5歳児までの保育を行っていた「山の遊び舎はらぺこ」は2023年4月に「認定こども園山の遊び舎はらぺこ」へと移行しました。さらに「家庭的保育事業はらぺこもりのぺこちゃん」として0歳児と1歳児の保育も始めました。そして2024年4月からは「はらぺこひろばのはらちゃん」として室内遊びだけではなく、野外での遊びや散歩も親子で楽しめるこどもひろば活動を行う予定としています。行っている活動内容そのものは20年前とそれほど変わっていませんが、子どもを取り巻く環境は更に厳しさを増している状況が広がってきていると感じています。小規模園であるので矛盾するようなことを言いますが、「多くの子どもたちにこの豊かな体験そして時間を味わってほしい」とますます考えるようになりました。一歩一歩進んでいければと考えています。




Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月18日07:47

掲載予定記事紹介 ⑦私がやりたいこと・学びたいことはもっと違う進路の先にある

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑦私がやりたいこと・学びたいことはもっと違う進路の先にある

私がやりたいこと・学びたいことはもっと違う進路の先にある
 ボランティア団体Aspiration創設者・株式会社LeaP UP!創業メンバー 大西 彩桜

はじめに
大西さんはどんな人?と聞かれたとき、私はいつも「うどん」みたいな人でありたい、と自己紹介しています。しなやかさを持ちながらも強いコシがあり、一本の筋が通ったうどんには、和風だしや醤油だけでなく、さまざまなスパイスの辛みや風味が効いたカレーも、ケチャップやバターと炒めても、キムチ鍋の〆にも美味しい。うどんには、異なる歴史や文化などの違いを受け入れて調和させるポテンシャルがあります。私自身も、「自分らしさ」を持ちながら他者を受容して世界を広げていきたい、そんな考えに至った私のこれまでの経験と思考を覗いていただけたら幸いです。

なんで長野高校を辞めたの?
私には、高校生のうちに達成したい目標が二つありました。一つ目は、自分が探究したいことを専門的に学べる大学への合格。二つ目は、カンボジアの農村部の小学校に絵本を作って届けるプロジェクトの達成。結論から申し上げますと、私は高校3年生の7月に、長野県立長野高等学校から通信制高校へ転校しました。長野県内ではよく知られた進学校を、受験生の夏目前に辞めたことは、多くの人から驚かれ、もったいないとも言われました。確かに、転学は簡単に決断できたわけではなく、悩み続けて動けなかった時期もあります。でも自分の人生で本当に大切にしたいことは何か?と自分に問い続けた結果、いま情熱を持って取り組みたいことに時間を使いたい、信念を持って臨みたいという答えが出たのです。残念ながら、より良い大学に行くことを目的とした教科学習や、偏差値を上げるための競争に高校生活のほとんどの時間を費やすことは、私の求める「学び」ではありませんでした。転校を選択し、自分の時間が自由に使えるようになったことで、二つの目標を達成することができ、今は第一志望であった大学で新たなスタートを切っています。

私の人生は私に決定権がある
私は幼少期から常に親の顔色を窺いながら、迷惑をかけないよう、怒られないように振る舞う子どもでした。親が喜んでくれることを選択し、家でも学校でも、誰かの何気ない言葉にプレッシャーを感じ、毎日机にかじりついて勉強しないと不安になり、空気を読んでは「いい子」を演じ続けていました。もしかしたら高校選びも他者の評価を気にして選んだ節があったかもしれません。
とても厳しかった私の両親は、私の弟が小学校低学年のときに不登校の選択をしたことをきっかけに、他者からどう見られるかの相対評価を気にするのではなく、個々がやりたいことを最も大切にし、どんな選択も応援してくれるようになりました。この家庭内の環境変化はとても大きく、自分の思いを伝えても否定されず受容される環境は、私に安心して自分と向き合う時間をもたらしてくれました。高校を何度も何度も休んで、立ち止まる時間、自分の感情を見つめる時間を経て、自分だけの道しるべを模索することができました。
今では、両親は心から信頼して相談できる存在です。
こうして今の私は、私の人生は私に選択の決定権があり、私の価値は、学歴や偏差値、他者との比較で決まるものではなく、「私が私らしく生きていること」そのものにある、と確信しています。
誰しも、大なり小なり「他者の評価」を気にして自分の人生の選択をそこに委ねることがあると思います。また、情熱を傾けるものが見つからない、好きなことがない、などの声も周りからよく聞きます。おそらく、私たち学生は勉強に、塾に、部活にと、与えられるものが多すぎて、毎日が忙殺され、「自分の声」に耳を傾ける時間など全く無いのではないでしょうか。
あれもこれも、「しなければならない」に追われているうちに、「これやってみたい!」という気付きなど、すぐに見落としてしまうということを体感してきました。自分が強く興味を惹かれたものを、後回しにしたりないがしろにしてしていれば、「好きなことなんてない」となってしまいます。
「与えられる学び」「押しつけられる学び」には、私も、そして不登校を楽しむ私の弟も全く興味がありませんが、ゲームでもニュースでも、気になることや面白い内容はどんどん調べて、誰よりも詳しくなっていきます。「欲する学び」こそが、本来の学びの姿なのだと実感しています。
高校や大学、会社であっても、人生の選択肢は自分から狭めたり、執着したりする必要はなく、自分が大切にしたいこと、大好きなこと、やり始めたら止まらないワクワクなど、自分だけの唯一無二の宝物を信じてこれからも人生を歩んでいきたいです。

私が挑んだ活動
“図書館はあるのに絵本が足りないんだ。子どもたちも読み飽きてしまっている”
昨夏、私は農村部の小学校で行われるボランティア活動に参加するために、アンコール・ワットで有名なカンボジアに降り立ちました。ボランティアでは、学校建設や村民・小学生の健康診断のお手伝い、小学校で自主企画の企画立案・実行等を仲間と共に行いました。そんなある夜、子どもたちの笑顔に囲まれて活動を進められた楽しさに浸りながら、カンボジアの料理を食べるためにネオンが輝く繁華街へと足を運びました。美味し料理と楽しい時間を満喫していると、そこに一人の物乞いの少年が、目に涙を浮かべながら近づいてきました。
「お金を渡してはいけない」1ドル札を渡そうとした私に、スタッフが声をかけてきました。犯罪組織が人身売買で買った子どもに物乞いを強いている可能性があることや、一人に渡すと他の物乞いが寄ってきてしまい、対処しきれない可能性があるからです。少年を目の前に、私はどうすることもできず、やりきれない気持ちを抱きました。この一件から、私は、今の私にできることはないかを模索し始めた。ふと思い出したのが、冒頭のフレーズです。カンボジア農村部の小学校に出向いた際、校長先生から直接聞いた“現状”です。実際に図書館内へ案内していただきましたが、絵本の数は100冊にも満たないだけでなく、どれもボロボロの状態でした。一方で、カンボジアで過ごすうちに、子どもたちが手を洗わずにご飯を食べる等、健康意識の低さも気になっていました。そして、2023年1月、学校の「絵本不足」と「低い健康意識」の課題を同時に改善したいと考え、カンボジアで出会った仲間と共にボランティア団体「Aspiration」を立ち上げ、「カンボジア農村部の小学校に絵本を作って贈る」挑戦が始まりました。今日に至るまで、進めるほどに次々と生まれてくる課題に、時に苦しさを感じながらもメンバーと絵本の内容に熟考を重ねてきました。多くの方からのサポートをいただいて「手洗いの重要性を伝える絵本」をクメール語で製作しました。9月に始めたクラウドファンディングも45名を超える方々にご支援いただき目標金額を達成し、2024年2月、304冊の自作絵本を届け、手洗いのイベントを開催することができました。ここまで規模を大きくして活動できるとは1年前の私には想像すらできなかったし、言い訳材料をなくして出来る限りのことを実行できたことに大きな価値を感じています。

最後に
何かを選択し、何かに挑戦するとき、それには莫大な時間と苦悩が生じると思います。そんなときでも、なんでも楽しみながら自分らしく生活していれば、自ずと目指す方向へと進んでいくと思います。私自身、恵まれた環境で育ってきたことを自覚していますが、辛い想いをしている人や安全や自由すらも制限されている環境で生活している人が幸せだと感じる社会を創造できるよう、邁進していきたいと思います。

大西彩桜 立命館アジア太平洋大学1年。高校2年生で18日間カンボジアへボランティア活動へ行く。日本帰国後、現地の課題を少しでも解決したい想いで「カンボジア農村部小学校に絵本を作って届ける」プロジェクトを設立。手洗い絵本を作成し、2024年2月、300冊の自作絵本を小学校に届けに行く。2024年9月、カンボジアに500冊の絵本を届けに渡航予定!大学では「自由と安全が保障される」社会を創造すべく、人身売買や児童労働、労働搾取の問題に関して研究していく予定。



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月15日07:09

子ども白書掲載予定記事紹介 ⑥子育てにおける親子の対話と子どもの権利

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑥子育てにおける親子の対話と子どもの権利~「きく」を哲学する~

子育てにおける親子の対話と子どもの権利~「きく」を哲学する~

大阪公立大学 伊藤嘉余子

1.子どもの声を「きく」ことと、子どもが「言える」環境を整えること
 近年「子どもの声をきくこと」への注目や関心が高まっています。2023年度から新設されたこども家庭庁においても「こどもまんなか社会」を実現するために、こどもの声をきき、それを制度や施策に反映させるための様々な取り組みを始めています。
 こどもの声を社会に反映させるために、こどもの意見をきく機会の設定や仕組みの創設はとても大切な取り組みです。しかし、同時に、子どもが安心して自分の意見や声を発表したり表明したりできるようになるための工夫や取り組みも大切になります。なぜなら、「意見を言ってよかった」「意見をちゃんときいてもらえた」という小さな成功体験を積み重ねてきていない子どもは、急に「あなたの意見をきかせて」と言われても、「叱られたり馬鹿にされたりするのではないか」または「どうせ意見を言っても聞き流されて無駄に終わるのではないか」と思っていることもあるからです。

2.こどもの権利擁護を実現する3つのステップ
 子どもの「意見表明権」の保障を含む、さまざまな権利を擁護していくためには3つのステップが必要です。
 1つめは、日常生活におけるコミュニケーションレベルの意見表明権の保障です。「今日何が食べたい?」「次のお休みにはどこに行きたい?」等、普段から親・おとなと一緒に「おとなにきかれる→おとながこたえる→子どもの声が実現する」というプロセスを大切にした生活をしていると、子どもは「次はこれがしたい」「これはしたくない」等と自分の気持ちや意思をしっかり考え、相手に伝える力を育むことができます。
 2つめは、「いじめにあっているから助けてほしい」「先生にこんなことを言われて傷ついたから慰めて欲しい」等といった、子どもが大切な自分の権利を侵害されたとSOSを出したときに、しっかり受け止め、答えることで、子どもの援助要請力を育むステップです。「困ったことがあったらちゃんと言える子になってほしい」と思っていても、そもそも困る前の日常的なコミュニケーションレベルで「意見や声をきいてもらう機会」を経験していない子どもは、いざというときに、SOSを出せる力を発揮できないのです。
 3つめは「おとなの良かれを聞き入れてもらうことで実現できる子どもの権利擁護」です。例えば、子どもが「母親からご飯を作ってくれなくても、暴力を振るわれる日が多くても、家で母親と一緒に住み続けたい」という意見・意思を表明したときに、おとなとして「ではそうしましょう」と、子どもから表明された意思をそのまま実現することは困難です。こうした場合に、「母親と一緒に暮らしたいというあなたの意思に反する決定をすることで、あなたの大切な権利を守る」というおとなの判断を子どもに受け入れてもらわなくては、子どもの権利を守ることはできません。この3つめのステップの権利擁護を実現するに際しては、「なんでもないときから子どもの声を聴いてもらえた」というステップ1、「困ったりしんどい思いをしたりしていた時に、きちんと対応して助けてもらえた」というステップ2の積み重ねがあるからこそ、「今回は自分の意思とは異なる決定だけど、受け入れよう」と子どもは納得したり妥協したりできるのです。普段から声をきいてもらえていない子どもは、おとなが善意でおこなう助言や支援等をそのまま受け止めることが難しいのです。子どもの権利を守るには、普段から子どもの声をしっかり聴くこと、聴き続けることが大切になります。

3.「きく」の5ステップを考える
 次に、子どもの声を「きく」とは、どういうことなのか?を考えてみましょう。
「きく」という漢字には、何種類あるでしょうか。よく言われることの一つとして「人の話をきくときは、【聞く】のではなく【聴く】ことが大切です」ということがあります。なんとなくぼんやり【聞く】のではなく、しっかりと耳を傾けて【聴く】こと(傾聴すること)が大切、という趣旨です。
 しかし、本当の意味で子どもの声をきくためには「【聞く】から【聴く】へ」だけでは不十分だと考えています。
 立場上、学生や子ども、養育者(施設職員や里親など)を対象に、話の聴き方などコミュニケーションデザインに関する講義や演習を提供する機会が多いです。こうしたレクチャーの時に「【きく】の5段階活用」のお話をしています(表)。(省略)

 多くのおとなは「聞くではなく、聴く」を心掛けていると思います。しかし、そのあと、子どもの声を聴くことよりも「おとなとしてどう説明責任を果たすか」「子どもが納得して従ってくれるような理由を説明して説得しなくては」と、「おとなが話す側」にまわってしまいがちです。それを一歩踏みとどまって「どうしてそう思うの?」「何があったから学校に行きたくないの?」等と子どもに言動の理由やその背景にあるエピソードを聞き出そうとする「Ask(訊く)」の姿勢が、子どもとの対話の中では大切になります。この「Ask」の段階の質問内容は、「大人が聞きたいことをきくための質問」ではなく「子どもが本音を話しやすくなるためのAsk」であることを心掛ける必要があります。子どもが表明した言葉や態度の奥底にある本音や思い、大人がまだ知らない出来事などを丁寧に掘り下げ、聞き出すことによって、子どもの声をおとなが「自分ごと」として受け止めます。そのうえで、子どもとおとなの双方にとって効き目のある着地点を見つけて提示するのが「効く」の段階です。子どもと大人の双方の歩み寄りによって発見できた着地点を確認して、それを実行に移す段階が「利く(work)」という子どもの意思実現の段階です。「利く」は「右利き/左利き」といった使い方をする漢字です。子どもが大人と一緒に見つけた意思実現の形を行動に移していく。これが、大人が心掛けるべき「子どもの意見表明家の保障」を含む「子どもの権利擁護」のかたちではないかと考えています。





Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月14日06:51

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑤不登校の現在地(内田 良子)

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ⑤不登校の現在地(内田 良子)

不登校の現在地
子ども相談室「モモの部屋」・心理カウンセラー 内田 良子

はじめに

文科省が2023年10月に発表した不登校の小中学生が30万人に迫り、マスメディアをはじめ教育現場を大きく揺さぶっています。年間30日以上断続または連続で欠席した不登校の子どもは前年度比で22%増えました。この他に新型コロナ感染回避で30日以上休んだ子どもは忌引と同じ出席扱いですが2万4千人弱、学校外の学びを選択した子や非行などを含む「その他」に分類された不登校は6万2千人強で、この人数を加えると不登校は36万人を超えます。この他に病気が7万6千人で2011年度の2倍を超え、この中に体調不良で不登校の子どもがかなり含まれていると推測されています。いずれにしろ少子化が進む時代に不登校が増え続ける教育現場は異常です。文科省は新型コロナの影響で一過性と説明しながら、他方で「多様な学び学校(不登校特例校)」の設立や学校内フリースクールなど泥縄式の対策を打ち出しています。子どもたちがなぜ今の学校にNoをつきつけ、登校を拒否し不登校生活をするのか、子どもたちに聞くことなしに、国やおとなたちの都合と教育行政の体面で、もぐら叩きゲームのように叩き潰そうとしてきた対策が破綻に瀕しているということでしょう。学校に流れ込む教育という河川が決壊を始め、堤防が崩れる音が聞こえてくるようです。

コロナがもたらした現実
昨年5月に新型コロナウイルス感染症が5類になると共に、待っていたかのように各地から講演会と相談会の依頼が入ってきました。コロナ以前は市民サイドで教育行政に取り込まれることなく、不登校をする子どもを理解したいと活動する団体からよく声がかかりました。コロナ明けから、学校依頼が増えてきました。高い塀の内側で何が起こっているのかを、私はリアルに知る機会に恵まれました。昨年猛暑の続く夏休み、東京近県の公立小学校から「人権教育の一環として教職員研修で不登校の話をしてほしい」という依頼がありました。声をかけてくれた先生は学校現場を5年ほど離れて戻ったところ、学校が市民社会とあまりにも乖離している現実に驚き、危機感を抱いて企画したと話してくれました。校長は「不登校は生徒指導として扱っているが、子どもの人権という観点で話を聞くのは興味深い」と了承してくれたということです。当日応接室で校長は「わが校には幸い不登校の子どもは一人もいない」と小さく胸を張り「しかし、いつ不登校になってもおかしくない子どもたちがいて、先生たちが対応に苦慮しているのでよろしく」と言われました。研修の会場では堅い表情の先生たちが直立不動の姿勢で立って迎えてくれびっくりしました。ここはアウェイだと内心ドキドキしながら「登校拒否、不登校をする子どもたちの訴えと保護者の苦悩」というテーマで話を進めました。子どもたちがなぜ学校を休むのか、その原因や理由を理解せず、解決のための対応もしないまま「学校復帰」を急ぐ対策は子どもを追い詰め、小学生も含めて命を断つ子どもが増えている現実を伝えました。小学3年生が辛い登校を「学校に行く道は命を落とす道、通学路にある石柱が墓石に見える」と親に訴えていたこと、2017年に行われた「登校拒否・不登校全国のつどい」で配布された「子どもたちのつぶやき」には「ただひと言、『休んでいいよ』と言ってほしかった」と、切実な訴えがあることなどを伝えました。不登校の子どもたちが国連子どもの権利条約に学んでつくり、2009年の「登校拒否・不登校全国ネットワーク」全国合宿で発表した「不登校の子どもの権利宣言」の内容を伝え、学校に行かない子どもたちがいかに主体的に学び実践し成長する存在であるかを話しました。

統計に計上されない透明化した不登校
講演の後、不登校対応の教員から、母親の車で毎日送り届けられる高学年の子どもがいると相談を受けました。登校すると校舎の最上階にある非常階段の裏に、人目につかないように身を隠し、一日すごしているということです。毎日登校しているので不登校ではなく出席扱い。教室にこわくて入れず授業は受けないまま、隠れてすごすのは小学生の子にとっては苦役に等しく、学びと日常生活から疎外された不毛な時間のように思えます。からだは登校、心は学校拒否の姿に心が痛みます。文科省の早期学校復帰対策が続くなかで、こうした子どもたちの姿が、全国各地の学校で日常化しています。文科省が毎年発表する不登校の統計には計上されない見えない不登校です。登校圧力が強く心は登校拒否、からだは登校という透明化した子どもたちの存在はかなりの人数に登るのではないかと推測されています。国が不登校の子どもの人数の増加のみを問題視して対策するため、登校していさえすればよしとして不登校の数減らしに走る学校現場が子どもたちをネグレクトしていることを見逃してはならないと思います。

不登校はなぜ増え続けるのか
年が明けて宮城県内の公立小中一貫校から不登校について教職員研修をしたいとの依頼が入りました。東日本大震災のあと、中学生の不登校が全国で一番多いという報告が続いた県です。震災が大きな傷跡を残していることとの関連が心配されていました。当日は保護者や地域住民にも声がかかり、オンラインと会場とのハイブリットで行われました。翌日、不登校をしている子どもをもつ保護者との相談交流会を呼びかけたところ数人の人が集まりました。全国的に小学生の不登校が急増しており、その原因がどこにあるのか問われていますが、参加者の大半が小学生の保護者であることに内心驚きました。市民主催の相談会だと中・高校生が圧倒的に多いのが常です。学校で何が起こっているのか耳を澄ませました。2年生の男の子は先生が恐くて教室に入れません。母親が一緒だと行けると言うので、仕事を休んで同伴登校し、教室に入って一緒に授業を聞いています。子どもの言う通り本当に恐い先生でした。授業のわからない子に机をバンバン叩いて怒鳴りつけながら教え、子どもは泣き出しそうな様子。聞いている母親も「うわ、こわ!」とからだが震え隣に座っているわが子が「ね、恐いでしょう」と目くばせをしてくる教室はシーンと静まり返って緊張感がピーンとはりつめていているというのです。授業を終る時先生は「ああここまでしかできなかった。わからない子がいたから授業ができなかった」と子どもを責めるように言ったというのです。教室に居た母親はその子がどんなに傷ついたかを想像して心が痛くなったと言いました。衆人環視の教室で先生の厳しい指導や感情的な叱責、暴言は子どもの心を深く傷つけ、自尊の感情を打ち砕きます。子どもは教室での居場所を失い、教室が怖い、先生が恐いという精神状態に追い込まれます。自分を見るクラスメートの目がこわくなり、対人恐怖、集団恐怖に陥り、外に出られなくなる子がでます。不登校の始まりです。「先生にいじめられて教室に居場所がないのに、それでも学校へ行けと言われたら、暗黒の宇宙へ放り出された気がして死にたくなる」と小学生が母親に訴えた話を聞きました。教室に居場所がなくなった子どもにとっては、家庭が唯一のシェルターです。教室で他の子どもが理不尽に叱責されたり罰を与えられたりするのを見ている子どもたちにとって、先生の言動は面前DVです。毎日のように見ている子どもたちも心を傷つけられ、頭が痛い、お腹が痛い、夜眠れないなどと心身症状を訴えて学校を休むようになります。母親が同伴登校をしている少年は、宿題の漢字ノートをおざなりに書いていたら、真面目に書きなさいと叱責されました。緊張して升目に漢字が納まるように丁寧に書いて行ったら「ママに書いてもらったのでしょう」と怒られました。怖くて黙っていたら「黙っているのは認めた証拠ね」ときめつけられてしまいました。次の機会も「また、ママが書いたのね」と叱責され恐怖を感じます。子どもは夜眠れなくなり「目をつぶるとこわい」と不安を訴え、朝もまったく起きられなくなりました。相談会に参加した他の保護者3人が同じクラス担任でした。学級王国といわれる小学校で同じクラスから何人も不登校の子が出る典型的な例です。加えてコロナ対策が最優先だった非常事態に、厳しく生徒管理をした教師は5類に移っても強権的な指導が手放せません。無力で抵抗できない弱者の子どもたちを抑圧し続けて不登校に追い込んでいます。国は子どもたちに安全で安心な学校を用意する義務があるはずですが、学校が内部から崩壊しはじめ、国が就学義務違反の事態に陥っています。


Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月13日07:39

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ④勇気ある逞しい子どもたち

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ④勇気ある逞しい子どもたち

勇気ある逞しい子どもたち
長野市民病院 小児科 森田 舞子

子どもの命を脅かす学校
学校がつらいと感じる子が増えています。全国的に長期休業明けにかけて子どもの自殺が増加する傾向があり、学校が子どもにとって命を脅かす場所になっている現状があります。「学校を休みたい、行きたくない」と言うのは勇気がいることですが、学校に行くくらいなら生きていたくないと思い詰めている子どもが、自分の命を守るために勇気を振り絞ってSOSを出しています。

「学校に行きたい」と訴える子どもの気持ち
相談に来る子と話すとき、まず「学校に行きたい」と感じているのか尋ねます。行きたい、と答える子は少なくありません。学校が楽しいから、勉強も嫌じゃない、友達とも遊びたい、行事や役割にやりがいも感じている、と学校に行きたい理由を挙げてくれます。ですが、よく聞いていくと、心から学校に行くことを楽しいと思っているわけではなさそうです。

学校に溢れる「べき思考」
学校には「行かなければならない」「勉強しなければならない」「ルールを守らなければならない」「係や役割をこなさなければならない」、さまざまな「べき思考」が溢れています。「こうしなければならない」にひたすら合わせてきた子が、疲れやストレスをためて心身の健康を崩していきます。学校に行きたい、行かなければと頭で考えても、心と身体は動いてくれないのです。

失敗を許されない子どもたち
普段から勉強や役割を頑張って、ルールを一生懸命守っている子でも、時には間違いや勘違いがあったり、他人の争いに巻き込まれて文句を言われたり、悪意がなくても人を傷つけてしまったり、失敗することやうまくいかないこともあります。それを先生や他の子に責められて傷つき、さらに自分自身も悪いことをしてしまったと強い自責の念に駆られてしまうことがあります。それがきっかけで学校に行くのがつらくなる子もいます。
でも、学校に行かないと「みんなに怠けていると思われるんじゃないか」と不安になってしまったり、「学校に行かない自分はダメなんだ」と自分を責めて苦しくなってしまったり、だから学校に行かないのもつらい。学校に行くのも、行かないのもつらいのです。

「学校に行かない」を選択する子どもたち
何度か話をしている内に、うるさい子や人の悪口を言う子がいる教室は苦しいんだとか、先生の怒る声を聞くのがしんどいんだとか、勉強つまらないし分からないから嫌なんだとか、自分はもっとこういう風に過ごしたいんだとか、学校がつらい理由を話してくれる子もいます。
最初から「行きたくない」と教えてくれる子もいます。押しつけられる学習や役割、人間関係を苦痛に感じる子もいるし、音や匂いや視線など周りからの刺激を不快に感じる子もいます。いずれにしても、学校が楽しい場所ではなく、心を傷つけられたり疲弊していくつらい場所になっています。
つらくても我慢して登校を続けていても、このままだと壊れてしまうと身体や心がSOSを出します。子どもたちは自分の命を守るために、「学校に行かない」を選択します。

「迷惑をかけて申し訳ない」と考えるのやめませんか
 子どもが学校に行かないと、何とか学校に来させようと頑張ってくれる先生に申し訳ない、友達が誘ってくれるのに申し訳ない、心配してくれる人に申し訳ない、と子どもも親も申し訳ない地獄に陥ります。
でも学校は本当に行かなければいけない場所でしょうか?誰もそんなことは決めていません。子どもにはいつどこで何をどう学ぶかを選ぶ権利があります。学校という決められた場所や方法で学ばなくてもいいのです。学校に行かなくても、迷惑をかけて申し訳ないと思う必要はありません。

子どもの権利、大人の義務
でも、まだまだ学校に行きなさい、行かなければいけないという言葉を使う保護者も多いですし、教室に来てみんなと一緒に活動させたい先生方の思いは根強いものがあります。なのであえての繰り返しですが、子どもに学校に行く義務はありません、親や先生(大人)にも子どもを登校させる義務はありません。ただし大人には、子どもが安心して食べ、寝て、楽しみ、学び、健康に生きる権利を保障する義務があります。いつ、何を学ぶかも子どもが選んでいいのです。今は教科の勉強はしたくないなら、外で遊んでも、物作りをしても、ゲームをしてもいいのです。何をしても子どもにとっては学びになるので、一緒に楽しみ、おいしくご飯を食べ、気持ちよく眠ることができれば、大人の義務も十分果たせています。

親の不安
学校に行くことが当たり前の価値観で育ってきた親世代にとっては、子どもが学校に行かないことを不安に思うのは当たり前です。子どもが学校外で学ぶことを望んでも、学び場や学び方の選択肢は少なく、費用もかかるという現状もあります。共働きでも家計が厳しい時代ですが、家以外の子どもの居場所が見つからないと、小さい子であれば家で過ごすのに親の見守りが必要ですし、学校に行けない子は不安が強くなって家にいても親から離れられなくなることもあるので、親が働けなくなることがあります。ただでさえ子育ての不安、経済的な不安、病気や介護など不安だらけの社会です。さらに子どもが不登校になると、暗い暗いトンネルに入り込んで出口の見えない状況に感じる保護者も少なくありません。

トンネルの先には必ず明るい出口がある
社会も少しずつ変わってきて、学校に行かなくてもいいと認識し始めている方々も増えてきています。子どもや親の不安に寄り添ってくれる人も少なからずいます。家庭でも学校でも地域でも医療でも行政でも、相談できる人や場所はたくさんあります。
学校を休みたいというお子さんには、まずはそれまで頑張ってきたことを労いゆっくり休ませてあげてください。休養の期間はそれぞれの子の我慢や疲労の度合い、休息の質などにより長短がありますが、休んで心身共に回復したら、自然に子ども自身から自分が何をしたいかどう生活したいか、という意思が沸いてきます。親は子の要望に対しメリットとデメリットを情報として伝える、その上で子どもがまた考えて選択して過ごし方や生き方を決めていきます。そうやって子どもは前を向いて自分の足で立って歩いて行くようになるのです。つらさを克服し生き抜くたくましさを子どもは持っていると信じて、そばで見守っていてください。

誰もが失敗するし失敗していいことを伝える
失敗やうまくいかないことは、人間が成長していく過程で、新しいことに出会い挑戦すれば必ず遭遇する経験です。そもそも人間は不完全で、社会から戦争も貧困もいじめやハラスメントもいまだになくなりません。大人だって自分を優先して怠けたりずるをしたり人を傷つけたりもしてしまうのです。まず大人自身がその事実を受け入れて、大人だって失敗するしまだまだうまくできないことだらけなんだよ、だから少しでも生きやすい社会を実現するために、一緒に成長していこう、という思いで子どもに接することができれば、頭ごなしに子どもを叱ったり否定したりすることは少なくなるはずです。そしてまだ経験値が少なく、当然失敗することも多い子どもたちには、失敗できたことで学び成長する機会を得られたことを肯定的に受け止められるよう、大人が寛容であってほしいと思います。大人はくれぐれも、自分だけには甘く他人の失敗には厳しい人であってはならないと、自分自身への戒めとして覚えておきたいです。

勇気ある逞しい子どもたち
学校に行けば、受験して進学して就職して、大人が考える安定した人生を送れる、と我々大人は考えがちです。ですが大人の考える安定が、一人一人異なる考え方、感じ方を持つ子どもにとって、新しい時代を生きる子どもたちにとっての幸せとは限りません。
自分が何をしたいかに向き合い、どうしたらいいか考えて進む道を決める子どもは、自分にとっての幸せな人生を選び取っていくことができます。つらくても学校に行く選択をする子も逞しいです。学校に行かなければ強制はされない分、みんな一緒の安心感はないので、自ら道を探し掴み取る苦労は大きくそれも勇気が必要です。
学校に行く、行かないは重要なことではありません。学校に行っても行かなくても、自分の生き方は自分で決めていい。ただし自分以外の人にも生き方を選ぶ権利があるので、相手と対話し譲り合う大切さをまずは大人が実践し子どもに伝えたいです。



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月12日07:12

掲載予定記事紹介 ③地域課題として「子どもの声から学校を考える対話の場」を

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ③地域課題として「子どもの声から学校を考える対話の場」をつくりたい

地域課題として「子どもの声から学校を考える対話の場」をつくりたい

となりのチカラ 代表 西山 良子

3年前に親の会を始めて、不登校約30万人という現状に率直に思うことは、「この数字をいつまで子どもたちに背負わせるのだろう?」ということです。子ども・親・先生の努力、忍耐、根気に依存し、子どもの側を変えるだけの支援ではなく、「不登校」「学校に合わない子ども」の側に立って考え、学校そのものを改革していかなければ子どもが学校からいなくなる日も近いと思っています。「学校がいやだ!変だ!行きたくない!」という子どもの声を無視して学校の未来はないということを社会や地域の課題として捉え、大人から変えていく必要があると思っています。

なぜそんな風に考えるようになったのか?
私自身、小中学校は毎日行きたい場所ではありませんでしたが、学校なんてそんなもんだと我慢して通っていた記憶があります。
自分の感覚を無視して「そんなもんだと我慢する」ことが学校に通う間に板につき、社会に出てもいろんなことをあきらめて大人になった自覚があります。娘が小学生になり親として学校を見た時、40年以上前に記憶している小学校とほとんど変わっていなくて、それ以上に何だか窮屈で相変わらず我慢して行くような場所であることに、親になった私はチクリと胸が痛くなりました。なぜなら、何も変えようとせず変えることができるとも思わずに、我慢して、あきらめて、やり過ごしてきた結果、今の学校を子どもたちに残してしまったのだろうと思うからです。だから余計に、娘が学校から遠ざかることには、早いうちから納得しました。なので、「一緒にフリースクールを見に行こう」「学校じゃなくても学べる場所はたくさんあるから大丈夫」と、学校からさっさと遠ざかろうと提案したりもしましたが、娘は3年後、再び学校に行き始めました。むしろ「学校以外に行くつもりはない」とずっと言っていました。 そんな娘の思いは「学校に行けるなら行きたい」。そういう気持ちで休んでいる子どもは結構多いことを親の会を通しても感じました。もちろん、「学校に行くべき」という周囲の圧力もあるとは思いますが、それだけではなく、みんなが同じ地域で同じ場所に通い、同じ年齢で同じ学びを経験している。「強制的に6歳になったらここに毎日行くんだよ」と用意された場所。そんな風に大多数の同年代が通る、人生の一部に食い込んだ、まるで通過儀礼のような側面を持ち合わせるのが学校なのではないかと思うのです。みんなと同じようにできないことが後ろめたく、やるせなく思うことや、孤立感を抱いてしまうのは、その子の立場で想像してみれば当然のことで、単に学ぶ場を確保できればいいという話じゃないのも分かるかと思います。 親も通過儀礼を通らず、学校に行かない道を子どもと進んでいくうちに、運動会や修学旅行、テスト勉強や受験など、知らないままでいいんだろうか? (人と比べて)成長できないんじゃないか? 不安と心配が波のように押し寄せてきます。高校は中学と違って自由に選べると言うけれど、結局高校に行くなら学校生活を送れるのが前提で、それができなきゃ話にならないと中3受験期に突きつけられて、義務教育が終わる焦燥感に我を失って子どもを追い詰めてしまうことがあるのは、親も追い詰められているから。どこまでいっても世の中に合わせなきゃ生きていけない、子どもも親もレールから降りているようで完全には降りられずに、結局は、子どもが周囲に合わせられるよう教育していくという形に戻されてしまうように感じます。

学校のあるあるが子どもを苦しめる
中学から娘が再び学校に行こうと思ったきっかけは、友達との時間を取り戻したいという切実な思いからでした。3年間、家でつながりを断っていたことで、その時間の尊さを感じられたのかもしれません。ただ、不登校から再び学校への道は簡単ではないんです。学校自体は不登校前と何ら変わっていないので、元気になったら我慢ができるようになるものでも適合できるようになるものでもなく、むしろさらに嫌気がさして、疲れるし、先生は最悪だし、「やっぱり行きたくなくなる」となってしまう。非常に残念なことに、心身を健やかに保ち、自尊心を失わない生活を送るためには、「学校に行かない方がよっぽど娘の人生にとっていいんじゃないか?」ともやもやした気持ちになったりもします。不登校に関してはいろいろな調査が行われていますが、学校で当たり前になっていることが辛いと言う子どもが多くいます。その中でも先生からの関わり、体罰や暴言までいかないが「こんなことも分からないの?」「1回しか言わないって言ったでしょ(だからもう言わない)」「さっさと書け!」「どうせまた〇〇だろ」「もういい!」みたいな皮肉、嫌味、決めつけ、高圧的な態度です。これが本当に子どものこころを痛めつけるし、疲弊させる。家庭での子どもに対する不適切な関わりがマルトリーメントと言われますが、「教室マルトリートメント」という本もあり、学校では「指導」として認識されてしまうこともあるのです。しかも、当たり前の光景でそのことに誰も声を上げないし、上げたところで何も変わらないし、説教されるだけだから子どもは言わない。言えない環境がそろっている学校では、主体性をなくしてだんだんと自分の意見や考えを持たなくなるので扱いやすい子にはなるかもしれないが、それが本当に目指す子どもの姿なのか?と親も考えることが大切だと思います。また、学校の体罰に関するアンケートでは、肉体的な暴力に限定している印象があり、このようなことは傷つくし怖いけれど、体罰ではないかも?と子どもとしては迷うので、本来ならアンケート自体も見直しが必要だと個人的には感じています。

調査の中で聴かれた子どもたちの声
〈不登校の子どもたちが学校で辛かったこと〉
・給食食べる早さ、足の速さ、テストの点数、全部競ってて辛かった
・先生がこわい、大きい声で固まってしまう
・時間に縛られてやることばかりで、全然自由じゃない
・好きなことも得意なことも違うのに、みんな同じ型にはめようとする
・他の子が怒られているのをみると、自分は怒られていないけどすごく怖かった

子どもは未熟で指導が必要な存在だと思い、厳しくしつけなければと思いがちですが、それによって、人として当たり前にある人権や尊厳を傷つけてはいないだろうか?学校こそ子どもが人権感覚を学ぶ場にふさわしい環境であってほしいと願います。

子どもの声から学校を考えるには
学校から子どもたちが消えてしまう前に、毎日安心で楽しみになるような学校にするにはどうしたらいいのでしょうか?
以下は、長野県PTA新聞に掲載されていた、県内の小中学生にアンケートした「こんな学校ならいいな♬」の子どもの意見です。
・宿題をなくす
・スマホOK
・お昼寝できる
・給食をビュッフェにする
・持ち物自由にする
給食以外は、すぐにできそうだなと思うことばかりですが、家でも学校でもほとんど理由も聴かずに批判されたり却下されるとぼやいている子どもの声を耳にします。「大人は、意見は聞くけど聞くだけじゃん!」と子どもは言います。「そう思ってるんだね」と一旦受け止められるだけで、子どもたちにとって学校が安心できる場所になるんじゃないかな?と思います。その為には、まず大人である私たちがただ聴いてもらうという体験が必要不可欠ですが、そういう場所は大人にもないんです。先生や親に相談できないという子どもの背景には、大人の世界が垣間見えてきます。 今、学校に行っている子どもたちの中にも声は出さずとも辛さを抱えている子がいます。地続きで不登校の子どもたちがいるという視点を持ち、一つ一つの意見の奥にある「子どもたちの願い」を丁寧に見ていくことで、未来の学校像が浮かび上がってくる感じがします。
2024年度は地域の小中校長先生方と不登校・行き渋りの子を持つ親との対話会を実施しました。親も校長先生も子どもや教育への思い、不安や困りごとを話し聴き合うことで、立場は違えど子を思う気持ちでつながれるようなあたたかな場になり、お互いに有意義な時間を持つことを意図しています。3月には次年度に向けて「明日も行きたくなる学校づくり」をテーマに対話会を実施します。(子どもの意見も入れる工夫を考え中!)自分の子どもが義務教育を終えたとしても、その先に続く全ての子どもたちにとって、そして先生方にとって学校がハッピーな場所になって欲しい!
たくさんのチカラを集めて実現に向けて活動を続けられたらと願っています。



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月11日08:19

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ①不登校、その「支援」の前に後半

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ①不登校、その「支援」の前に…後半

4. 「自由記述]から見えてきたこと
交流会の調査では、「不登校の要因について」、「各相談先について」の2点、自由記述形式の質問を設けました。ここでは、その切実な声の一部をご紹介します。なお、個人や団体が特定できないよう、主旨が変わらない範囲で変更を加えている箇所があることをご了承ください。
(1)不登校の要因について
①「教職員」に関する記述

発達障害のクラスメイトを先生が強く叱責するため、ストレスのはけ口として我が子が暴力を伴ういじめのターゲットになった。

クラスメイトがひどく叱られていることが自分のことのように辛く感じたとも言っている。

自分の名前を漢字で書くと、習っていないという理由で×をつけられた。

担任に体調が悪いと訴えても保健室に行かせたもらえなかったり、早退について保護者への連絡がなかった。

同調圧力を感じさせる言葉を掛け続けられた。

(集団行動ができないことで)「こんな事もできないようでは、お前の将来は刑務所の中しかないぞ」と言われた。
②「決まり」や「集団行動」に関する記述

時間を計りながら給食を食べさせたり、決まりが多かった。

指示に従って集団で動き、その度「評価」されることに敏感に反応し、違和感を募らせていたようでした。

連帯責任と言ってみんなのせいにする。
③「いじめ」に関する記述

担任に話をしても信用してもらえなかった。

虐め加害者に学校は一度も注意も話を聞くこともなかった。

「お前は支援級に行っているからバカだ」と言われた。学校は少数派の子どもたちには苦しい場所だと思います。
④「学校の仕組み」に関する記述

みんな同じ、与えられたものを、繰り返し何回も、というスタイルが合わなかった。

決められたことをする、いい子にならなくてはいけない、人と比べ合う状況などに苦しんでいました。

学習障害への対応を求めたが、特別扱いはできないと支援を断られたことで(学校に)居場所がなくなった。
⑤「教育委員会やSC、SSW」に関する記述

いじめ加害の解決ではなく、本人がどうやって学校復帰するという提案しか出てきませんでした。SCやSSWも、それを追認するだけで、専門性が大いに疑問でした。
⑥文科省の調査方法自体に関する記述

本人にも明確な理由はわからない。

(不登校は)問題が複数絡んでの結果だと思います。

家庭に(選択肢のような)原因があると言われているよう。社会的レッテルを貼られている気持ちになる。
⑦コロナに関する記述

コロナ対策が、より学校を嫌な場所にした。

コロナ自粛明けということもあり、不安定なまま小学校生活がはじまりました。

(2)各相談先について
①学校内

いじめの相談をしても先生たちが認めず隠蔽している。

SCやSSWは、とにかく当たり外れが激しい。

SCの方が、否定をする事ばかりでただただ傷ついた。

いじめる側をカウンセリングすべき。

学ぶ意欲があってもプリントだけ渡して放置でした。
②教育委員会・行政

教育機会確保法すら知らない教育委員がいる。

行政は人によって専門性が変わり過ぎて、話にならない。
③医療機関、④療育(発達支援)施設
・希望者が多いのか、まず繋がるのが難しい。

半年以上待たされて、どんどん子どもの状況が変わってしまう。親子で悩んでいる時間がつらくなります。
⑤フリースクール・居場所

子ども目線でのアドバイスが聞け、子どもが元気になった。
・親の話も親身に聞いてくれ、家族を助けてくれた。

やっと自分でいられる場所を見つけた。そうでなかったら死にたい気持ちになっていた。(本人)
⑥親の会

同じ思いをされている親子がいると知り本当に救われました。

情報量も多く、共感力も高く信頼できる。親の会にこそ国の予算を充てて欲しい。

ピアサポートが一番寄り添ってもらえて、子どもに前向きになれるのではないかと思う。

終わりに
残念ながら、今日まで、支援の前提となる「正しい現状認識」が欠けていたことは否めません。今後、行政レベルでは、政策を議論する段階から、いかに「当事者の声を反映させる仕組み」を作れるかが鍵を握るでしょう。また、現場レベルでは、見解の相違があることは受け入れつつも、まずは子どもや保護者の困り事に「共感する態勢」が不可欠です。場合によっては、共感できない教職員を支援チームから外す決断も必要かもしれません。
いずれにせよ、不登校への理解が進み、当事者に寄り添った支援のあり方を模索していくためにも、私たち、交流会の調査結果が、一人でも多くのみなさんの目に留まることを願っています。




Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月09日09:11

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ①不登校、その「支援」の前に・・・

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ①不登校、その「支援」の前に欠けているもの

これからご紹介する記事は、4月21日のオンライン会議で報告されます。参加ご希望の方は長野の子ども白書HPからお申し込みください。

不登校、その「支援」の前に欠けているもの
「不登校実態調査」から見えてきた課題
信州居場所・フリースクール運営者交流会 発起人 村上 陽一


はじめに
1991年から30年以上続いている文科省の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」が、今年も公表されました。文科省の定義による不登校は、中学では「100人に6人」に達し、総数は30万人に迫りました。これに「フリースクールで出席扱いになっている者」、「遅刻・早退などで欠席にはなっていない者」、「中間教室で過ごしている者」などを加えれば、その数は倍以上になるだろうと多くの支援者は口を揃えます。
文科省は不登校が急増した要因について、2019年末から始まったコロナ禍の影響に加え、2017年に施行された「教育機会確保法」の浸透が背景にあると分析しています。もちろん、これらの影響もあるでしょう。しかし、時系列で見れば、少なくとも2013年から、一貫して不登校児童生徒数が増え続けていることも事実です。
現在、この調査結果は、長野県に限らず、多くの自治体で「不登校支援策」を議論する際の参考資料として用いられています。しかし、仮に、この調査が実態を十分に反映できていないとすれば、それを根拠に議論された政策が奏功しないのも必然と言えます。
そこで、私たち「信州居場所・フリースクール運営者交流会(以下「交流会」)」では、文科省の調査と比較検証するため、独自の実態調査を行いました。本稿では、その結果を基に、調査のあり方や、調査結果を活かした支援のあり方について考察を試みたいと思います。

1. 調査の概要
①調査方法:Googleフォームを利用

回答者:長野県在住で不登校及び不登校傾向の小中高生をお持ちの保護者(匿名)
③期間:2023年9月15日~9月30日(16日間)

回答数:全273件(小学生216件、中学生55件、高校生2件)

2.「不登校の要因」について [資料1-1、1-2](省略)
 文科省の調査を見ていくにあたっては、「回答者が教職員」である点を考慮する必要があります。その上で、長野県内の公表値を見ると、不登校の要因を「(本人の)無気力・不安」とした回答が最多で、全体の約40.6%を占めています。ところが、「当事者の保護者を回答者」とした交流会の調査では、同じ選択肢でも約12.8%にとどまりました。しかも、自由記述からは、この選択肢を選んだ保護者の多くが「無気力」ではなく、「不安」という要素を意識して回答していることがうかがえます。また、仮に「無気力・不安」になったとしても、「その原因こそが調査されるべき」という指摘も複数ありました。
一方、交流会の調査で最も多かったのは「教職員との関係をめぐる問題」の選択肢でした。「複数回答無」でも約15.8%、「複数回答有」では約42.5%の保護者が選んでいます。これは、文科省基準と比較すると、最大約46.7倍もの開きがあることを意味します。
そして、さらに大きな乖離が見られたのが「いじめ」の選択肢です。こちらは交流会の数値の方が最大約63.7倍多い結果となりました。「いじめを原因とした不登校」は、文科省が定める「重大事態」にあたる可能性もあり、仮に交流会の調査の通りであれば、重大事態として扱うべき事案が見逃されている可能性も生じます。その意味でも、この数字は重く受け止める必要があるでしょう。
次に注目すべき選択肢は「学校のきまり等をめぐる問題」です。こちらは、交流会の数値の方が最大約48.6倍多くなりました。実は、この数字は少し予想外の結果でした。というのも、交流会の回答のうち、「小学生」の保護者が全体の79.1%(216件)を占めていたからです。一般に小学校には制服に代表されるような、明文化された校則は希です。ところが、自由記述には小学生が実に多くの「きまり」を意識して生活している様子が見て取れました。「ノートの書き方」や「あいさつの仕方」、「文房具の指定」、「集会時の歩き方」など、非常に細かく、多岐に渡ります。このような「明文化されていないルール」が、いわば「ステルス校則」として子どもたちを縛っている実態が見えてきました。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーが提唱した「一望監視施設(パノプティコン)」モデルによれば、常に教師に見られているかもしれないという「意識さえ定着させれば」、常に監視されている場合と同じ効果が表れるとされます。子どもは「自主的に」行為を抑制し模範になろうとします。さらに、相互を監視し、時に違反者を罰するようになると指摘します。実際、小学校では、担当の子どもが違反者を数え、児童会や校内新聞で公表し、時には罰を与える例も見られます。そして、教員の間では、このような事例を「自主的で誇らしい活動」と評価する声も少なくありません。
さらに問題なのは、文科省の調査では、このような「小学生の息苦しさ」が、数値として全く表れていないということです。
以前から文科省の調査方法の限界について、多くの支援者たちが懸念を示してきました。にもかかわらず、行政やマスコミは、そういった声に耳を傾けてきたでしょうか。結果として、不登校は「本人や家庭のせい」だという、偏った印象が社会に定着してきたことは否めません。無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)が、「当事者(の保護者)と学校」、「当事者(の保護者)と、それ以外の子どもたち(の保護者)」の相互理解を妨げ、分断を助長してきた、この30年を繰り返してはなりません。

3. 「相談支援の在り方」について[資料2-1、2-2](省略)
次は「相談先」についてです。多くの当事者が信頼できる相談先を求め苦労している様子がうかがえます。それは「納得感」にも表れています。この項目では公的機関と民間の間に予想以上に大きな差がつきました。残念なことに、自由記述には、学校や行政から受けた一方的な言葉や冷たい態度に対する憤りや落胆の声も多く寄せられています。
なぜ、このような摩擦が生じるのでしょうか。前述の「不登校の要因」を合わせて考えてみます。「本人や家庭」に要因があると回答している学校側と、「教職員の対応」にあると考えている保護者が、相談の席に着くのですから、円滑に対話が進まないのも無理はありません。逆に、民間の相談先、特に「親の会」が納得感や信頼を得ているのは、まずは「共感」をもって接し、同じ目線で相談、支援にあたっているからに他なりません。

続きは明日。


Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月08日21:03

024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ②学校がはぐルッポなら行くんだ

2024長野の子ども白書掲載予定記事紹介 ②学校がはぐルッポだったら行くんだけどな
これからご紹介する記事は、4月21日のオンライン会議で報告されます。参加ご希望の方は長野の子ども白書HPからお申し込みください。

024長野の子ども白書掲載予定記事紹介  ②学校がはぐルッポだったら行くんだけどな

「学校のあるある」 Vol.2 学校がはぐルッポなら行くんだけどな
子どもの支援・相談スペース「はぐルッポ」代表 西森 尚己

はじめに
「はぐルッポ」は学校へ行っていない、また登校していても苦しい思いをしている子どもの居場所です。子どもが、自分で考え自分で決めて次の一歩を歩みだすお手伝いをしています。また保護者の相談も受けています。11年目になります。
2022年度の不登校児童生徒の数が文科省から発表され、10年連続の過去最多でした。毎年一番多い要因は、本人の無気力・不安、続いて家庭環境でした。しかし、「はぐルッポ」の保護者の相談では、不登校のきっかけは、学校での出来事、教員との関係、いじめ、学校の決まりなどが圧倒的に多いです。
「信州居場所・フリースクール等運営者交流会」が不登校児童生徒の保護者にアンケートを実施しました。結果は予想通り、きっかけが学校にある場合が最多でした。時を同じくして「多様な学びプロジェクト」が、不登校の子ども・保護者・経験者に全国的にインターネットで実態調査を行いましたが、やはり結果は同じで、文科省の調査とは乖離していました。当事者抜きにした調査結果をもとに行われてきた不登校対策が10年連続過去最多にしてきた意味を真剣に考えなければいけないと思います。
前回の白書で学校のあるあるを載せました。今回はその続きと、そして先生方が抱える保護者に対してのあるあるもあわせて載せてみました。

子どもや保護者からのあるある

□子どものことを相談したら、他にも大変な子がいるので〇〇くんだけ見てられませんと言われた。
□「家庭でできてるならそのままでやってください。学校には〇〇くんの居場所は作れません」と言われた。
□うちの子は登校していないのに、お便りに「今日は久しぶりに全員そろいました」とあった。
□医者に行って遅刻したら調理実習が終わっていて、「何もしなかったのに、ただ食べるのは常識としていけない」と言われた。
□先生に、「今週1日来たから、来週2日来て増やしていけば1年たったら毎日来れるようになるよね」と言われて辛くなった。
□母が具合が悪いときに先生が来て、カップラーメン食べているのを見て「子どもにこんなもの食べさせて」と言った。
□「久しぶりに原級に行きたい」と言ったら「クラスの準備が整わないので」と言われた。
□「こういうことは得意なので授業出たいんですが」と言ったら「もう終わりましたから」と言われた。
□小学校へ入学したら先生から「みんな友だち。友だち100人作りましょう」と言われて苦しくなった。
□廊下は右側を黙って歩く、走ったら注意される。 
□算数の計算で定規で線を引くように言われている。
□子どもどうしで、忘れ物や身だしなみチェックをして注意したり、先生に報告したりする。(先生同士でも「君のクラス忘れ物多いね」と言われる)
□中学3年になってやっと学校へ行ったら、とたんに担任から「夢は何だ」と聞かれ「ここで人生が決まるぞ」(高校受験)と言われ前より苦しくなった。
□「この大学に入るには〇高校に入らないといけないぞ、今のままでは成績つかないぞ」と言われた。
□先生に「理系のほうがつぶしが聞くぞ」と言われた。
□先生は成績つけるために挙手した回数を数えているが、「挙げすぎるといけない」と友だちが教えてくれた。
□部活動で自主練と言いながら全員参加だと言われるのはおかしい。
□学校はすべて決まっていて、子どもに選択肢がない。
□寒いのではにわスタイル(スカートの下にジャージ)で登校していたら、住民から「みっともない」と言われたからと禁止になった。
□かわいい筆箱やバトル鉛筆などは使ってはいけないと先生に言われた。使うと先生に言いつけられて、子ども同士で監視するみたいになっている。
□相談があっても先生は忙しそうだから声を掛けたら申し訳ないと思っている。
□中学に入ったとたんに「将来困るので勉強させてください」と高校受験のことばかり言う。そういう先生が「親うけ」する。
□小学校に全然行かずにいた子が卒業証書を見て「僕は本当に小学校の課程を卒業したの?」と聞いた。

教員に対する保護者のあるある
□「今日は塾があるので早退させてください」と授業中に電話があった。
□「うちの子が学校で悪口を言われたから注意してほしい」と言われ、お互いに言っているのでと話したら「うちの子はそんなこと言いません、話をすり替えないで」と逆切れされた。
□「あの子がいるとうちの子の勉強に差し支えるから何とかしてください」と言われた。
□「プリントが届かなかったから予定がわからなかった」と親が言ってくる。(子どものカバンにあった)
□「部活の先生の口調がきつくて行く気がなくなったと言ってます」と親から連絡がきた。
□保護者から、子どもの好き嫌いで食べない野菜を、給食で抜いてほしいと言われた。
□担任が妊娠したら、「クラス担任として無責任だ」と言われた。妊娠した先生が「妊娠したようなことを子どもに見せるな」と言われた。
□「AさんとBさんが仲が悪いからうちの子は気を使ってAさんといたのに、いきなりAさんとBさんが仲良くなってうちの子が困っているから何とかしてほしい」と母親から言われた。
□係の仕事が終わらなかったので、「明日少し早く来てやってくれないかな」とお願いしたら、親から「なぜ学校の都合で早くいかなきゃいけないんですか?」と電話がきた。(いつも親が送ってきていた)
□親から「友だちとうまくいかなくなって休みます」と連絡がきたが、家族で遊びに行っていた。
□掃除のときにちょっとしたかすり傷をしたので、絆創膏を貼って帰した。翌朝母親が「医者に行ったら全治2週間でした。対応が悪い」と言われた。
□母親から「GPSを持たせているが、児童センターにいるはずが全く別のところにいるようなので捜しに行ってほしい」と電話があった。
□あの先生はクラスをまとめていく力がないから何とかしてほしいと言われた。
□宿題を少なくしたら、保護者から「宿題がないと勉強しないからちゃんと出してくれ」と言われた。
□「隣のクラスの先生と比べて、授業が下手だ」と非難された

「学校が『はぐルッポ』なら行くんだけどな」
ホントにこんなことがあるの?これはお互いレアなケースでしょう?と思うのですが、死ぬからいいとまで思い詰めている子どもや保護者がいる一方で、保護者対応に苦慮している先生がいることも事実です。不登校の子も親も先生に言えないと言い、先生は親に言ったら何を言われるかわからないと思っているようです。お互いにけん制して警戒しあっていたのでは対話にもなりません。学校の問題を弁護士が助言するスクールロイヤー制度を県でも締結したようですが、これほどまでに学校と子どもや保護者との間に溝ができてしまっているのかと思うと、どうすればいいのかわからなくて切なくなります。この状況を変えていくためには、子どもを支える者同士が子ども含めて話しあうフラットな対話の場が必要です。そこではおのずとそれぞれの価値観が問われることになると思います。それを、「子どもの権利」「人権」という観点から子どもにとっての最善の利益は何なのか、保護者も、先生も自らを問い直さなければいけないと思うのです。「学校が『はぐルッポ』だったら行くんだけどな」小学2年生から「はぐルッポ」へ来ていて現在小6のA君が、つぶやいた言葉です。彼は小学1年生の時に席を離れて歩き回って先生に怒られ、教室の前に立たされて「みんなといっしょに勉強したいです。ごめんなさい」と言わされました。それから学校にはずっと行っていません。彼は「はぐルッポ」ではとても元気ですが、彼の心の底には本当は学校に行きたいという気持ちがあることが、この言葉からわかります。「障害がある子は別の学校や教室に行ってね」、「子どもが不登校になったら別の場所(多様な学び学校やフリースクールなど)に行ってね」、という動きが加速していますが、別のところへ行く子は自分とは違う子だという意識が生まれ、ますます差別を生んでしまうでしょう。今こそ、子どもの権利に則って、すべての子どもが一緒に育っていくことができるように、本丸の学校がインクルーシブな学校になっていかなければいけないと、強く思います。







Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月08日21:03

子どもの声を聴き届けたい ~2024長野の子ども白書拡大執筆者会議開催~

024長野の子ども白書 執筆者のみな様
長野の子ども白書 読者・執筆者のみな様
このブログ読者のみな様

 花の春、新学期の春、新スタートの春、新年度の春、長野の子ども白書も期待や願いを背負って4月を迎えました。執筆者のみな様はじめ、長野の子ども白書を見守り育ててくださっている皆様に、下記のように第3回拡大執筆者会議の開催をお知らせします。

                  記

1 開催の趣旨
 長野の子ども白書が、「子どもの声を聴き届けたい」と謳い、その声を集めながら、「聴き届ける」という責任を果たしていないことは創刊以来の課題でした。今号にも貴重な「声」がたくさん寄せられています。これらを共有し、どこに誰にどう届ければ良いのか、「子どもの意見表明権」の意味を問いながら話し合い、実りある2024長野の子ども白書発行に備えます。

2 会の名称 子どもの声を聴き届けたい
      ~2024長野の子ども白書拡大執筆者会議~

3 内容 「文科省・不登校調査への疑問」(村上陽一)「学校のあるあるⅡ」(西森尚己)「学校を考える対話の場が欲しい」(西山良子)その他の報告を共有し、参加者の発言で深め、誰にどのように「届けたらよいか」話し合います。

4 日程  4月21日(日) 18:00~20:00

5 会場  オンライン開催(リアル会場はありません)
      会議数日前にZoom URLをご案内いたします。

参加ご希望の方は、このブログのオーナーまでメッセージをお送りください。
お名前・メールアドレスをお知らせください。会議数日前にZoom URLをご案内いたします。







Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年04月06日09:26

昨年の子どもの自殺513人。原因は「学校問題」(学業不振・進路・友だち)最多。

昨年の子どもの自殺513人高止まり。原因「学校問題」(学業不振・進路・友だち)最多。

 本当に悲しく悔しいことです。子どもが生まれない・・・どころか、せっかく生まれた奇跡のいのちを、子どもが自分で終わりにする国・にっぽん。
日本が「幸福度調査」で高評価を得られないのは当然と言えば当然です。こんな社会はイヤだ。

 子どもの自殺・とりわけ学齢期の現役児童・生徒の自殺が多いのはなぜなんだろう…。調査して分かっただけでも、その原因や動機は「学校」に多くある。次いで多い「健康問題」は、2次的に発症した精神的病気や身体症状であり、「家庭問題」も、最近言われている、家庭の学校化が子どもの困難を容認しないことで子どもが追い込まれてしまう2次被害だと思います。
 
 不登校の子どもたちや、いじめを訴えても信じてもらえない子どもたちが必ず口にする「死にたい」は、学校と言う「社会」でその存在を否定される孤独感につながっています。「学校に行くのをやめた」子どもたちが「命びろい」したと感じるのはそのためです。
 
 私には「子どもを評価・管理する学校」が、大きな川に架かるつり橋のように思えます。ゆらゆら揺れるつり橋をドキドキしながらわたるのは楽しいものです。でもいったん大きく揺れたり誰かに揺さぶられたり川底を見て恐ろしくなってしまったりしたら、その足が止まり立っていることすらできずそこにうずくまってしまいます。それでも「ここを渡るしか向こう岸に行かれないよ」と言われて、はいつくばって渡ったり誰かに肩を貸してもらって渡ったりします。「また明日もわたれ」と言われたら「ダメ」と言える子は正直です。(みんなはできているのにじぶんはできないという自己否定感に苛まれながら)。「不登校する子は勇気がある」と言ってくれた小児科医もいます。
 がんばって渡ろうとしてもうがんばれないのにわたり続けたら・・・。

渡るのをやめてみたら、川面に浮かぶ小舟を見つけます。ちょっと回り道だけど気ままに向こう岸に行かれる野道もあるのがわかります。つり橋の先だけが向こう岸じゃないこともわかります。ちがう橋を渡った大人にもたくさん出会います。あのつり橋を渡らなかったことを「自分がダメだから」と思わすに安心します。自分がどうしてあのつり橋を渡れなかったのかその時はじめてわかります。(もうつり橋には聴いてもらえないけど) 本当の願いはこのつり橋をみんなが楽しく安心して渡れる橋になってほしいことです。
                                                                                       つり橋を渡れない子が増えているので、川岸に分校(管理者は同じ教育委員会だからね)を作って「ここにおいで」という『学校』もあるけど、子どもを管理したり評価したりすることで自分の事業評価をするような『学校』だったら、つり橋とあまり変わらないと思う。「適応力」や「我慢強さ」も評価するらしいけれど、そのことがつり橋を大揺れさせているんだってこと、気付いて欲しいな。

つり橋を渡れない子に「いつでもここに来ていいよ」と言えるのは、教育委員会の管理を離れた「あそび場・広場」が内包する「まなびの場」。
(川崎市は子どもの権利条例によってこの施設が実現している。子どもの問題を横断的にとらえる施策や事業には「条例」が必要だから)




 

Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年03月30日08:17

国際幸福デー。日本は143か国中幸福度51位。G7では最下位。

あなたはしあわせですか?20日は国際幸福デー。日本は幸福度世界で51位。

もちろんG7のなかでは最下位。
「幸福度調査は1人当たりの国内総生産(GDP)や健康寿命、社会的支援、選択の自由度、他者への寛容さ、腐敗の認識の6項目について、自身の幸福度を0から10までの段階で国民に評価してもらい、過去3年間の平均値を基に算定している。」(ネットニュース引用)

7年連続のフィンランドやデンマークが幸福度が高い。「教育」「福祉」に税金を多く使っている「福祉国家」は国民がしあわせなのだろう。
労働者の賃金を抑え教育予算をケチり、教員も増やさず、ケア職の賃金も低く抑え、福祉や社会保障費を減らし、「子どものため」と言って国民からまた負担金を取るような政治が国民を幸福にできないのは当然です。まして政権の腐敗も根絶できず、これでは「この国は幸せ」と言える人は少ないと思います。

子どものしあわせ度はもっと低いかも・・・。子どもを大切にしない社会は大人もしあわせになれない。あたりまえだけど。

それにしても「もっといい社会に」「みんながしあわせに」とがんばっているつもりなのに、51位とは・・・。



Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年03月20日20:00

学校の先生方が見ている風景と保護者や地域が見ている風景がちがう(2)

学校の先生方が見ている風景と保護者や地域が見ている風景がちがう(2)

「学校の先生方個人や学校のやり方がいけない」と批判しているわけではないんです。
学校に行かれなくなった子どもたちがつぶやくのは、「思い出すと辛い言葉」や「今でも不安になるシーン」。考えると苦しくてそんなことで学校に行かれない自分はダメなんだと思うともう死んでしまいたいと思う。きっかけの数々。

この心の在りかは簡単には説明できない。
毎日積み重なる何かが重い。「そんなこともできないのか」「なんどいったらわかるんだ」「きまりなんだからまもりなさい」「よくできました」
「あ、いやだな」と思うのは、クラスメイトが何でもないことで褒められたり叱られたり馬鹿にされたりすること。先生は冗談ぽく「まるで動物園だね」いうから笑った方がいいんだろうか。でもイヤだから何でもない顔をする。疲れる。自分が言われても周りの友達は自分と同じように知らん顔だから、自分も平気な顔をしてへらへらしている。すごく疲れる。「つまらない」と言ったらとがめられたので学校に行かれなくなった。疲れてる。休んでいても思い出す。
こういう話を学校の先生にすると「感覚が過敏な子や繊細な子は時々います。先生はきっと子どもたちのために言ってると思うので、それが理由で学校に来られないのでは無いと思いますよ」とていねいに説明される。「それは大変なことですね」という反応をする先生はほとんどいない。
民主的で子どもの立場になって熱心に教えてくれる先生方ほど、不登校の子どもたちの「つぶやき」を安易に受け入れない。学校のあるあるをひとつひとつ「どちらが正しいか」白黒つけようとする。先生方にも言い分はある。もちろん、言わないけど言いたいことは山ほどあるはず。

不登校も、教員の多忙や疲弊も、同じ根っこから生えてる木なのだとういことがせっかく見えてきたのに・・・。伝統的な学校のシステムも評価や管理に統制された学校のあり方も、そもそも子どもが権利の主体だという教育の目的の不在も、みんな考え直さなくてはいけないということを、辛くも逃亡した「不登校」の子どもたちが教えてくれている。文科省に大鉈をふるうのは難しいけれど、地元で地域でわれらが学校を考えていくことは明日からでもできるではないか。憲法に保障された義務教育を受ける権利は子どもにあり、その権利の主体は「子ども」です。





Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年03月19日21:18

学校と地域の間に流れる大きな川のそれぞれの岸から見える風景がちがう

学校と地域の間に流れる大きな川のそれぞれの岸から見える風景がちがう

不登校の居場所から発信された「学校あるある」や、フリースクール関係者が行った「不登校アンケート」の結果から、不登校の「要因」として文科省が発表している「不安」のきっかけが「学校や教師との関係」にあるのではないか・・・と言われるようになってきました。
実際、不登校になったきっかけや引き金のいくつもある「要因」を複数で選択してもらうと、半数近い当事者が「教師との関係」を選択しています。いったい、どんなこと・・・?という疑問に答えるのが「学校のあるある」語録集です。また、先のアンケートの記述式の解答にも、ほとんどがこのことに触れているのは、「対応」も含めて、当事者にとっての学校や教師の意識がかなり遠い距離にあることがうかがえます。 
                                                                                        文科省も学校も教師も「学校生活の環境に適応できない敏感な子どもが増えている。ちょっとしたことで不安になったりがまんできなくなって登校できなくなる」(個人の要因)・・・・と認識しています。だから、もっと適応力を高めがまん強い子を育てようとがんばっています。かたや、学校に来られなくなったら無理をさせず、学校外の居場所を選択してもらうことで「不安」の症状を回避させる。適度な距離間でつながりつつ登校刺激はしない。

学校批判をしているのではありません。「良かれと思ってしている指導や教え方に、何かしら気付かないうちに子どものNGを見過ごしているかもしれない・・・」と伝えています。実際に変えていかれるとしたら現場の教師が直接の当事者なので、どのように理解しているのか聞いてみると、案外その間に流れる川幅が広いことに気づかされます。





Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年03月11日08:41

非認知能力(主体性や協調性)を育むことに重きを置く指針への疑問・警戒・批判

非認知能力(主体性や協調性)を育むことに重きを置く指針への疑問・警戒・批判

信濃毎日新聞に、長野市教委が決めた「しなのきプランⅡ(案)を決めたことが報じられました。
記事によれば、知識や技能の定着重視の考え方からの脱却を目指す‥‥とあります。信大教育学部と非認知能力を測定する調査「しなのきFinder」を独自に開発。小4~中3の児童生徒に年2回の質問に答えさせる。「何事にも一生懸命努力する」「他人の気持ちを考えている」と言う質問。結果を「みらい」「きずな」「じりつ」の観点で可視化し、子ども自身や学校が状態を把握。指導・支援の改善につなげる…のだそうです。

■正直言って、「ゾッとする」。

■これ以上子どもの内心に踏み込んで「評価」し、子どもに「適応を強いる」のか?

■「あなたは粘り強さが足りない。もっと自信をもってがんばりなさい」(みらい)

■「あなたは協調性に欠けている。もっとコミュニケーション力を高めないと」(きずな)

■「あなたは規範意識が乏しい。適応力を高めなさい」(自立)

わあ、いやだいやだ。こんなことして子どもがどうなるのか。これ以上不登校の子を苦しめるのか。考えて見ないのでしょうか?信州大学の教育学部の研究論文を探っても、本気で「不登校」や「生きづらさ」に子どもの視点で踏み込んだものが見当たらない。学校批判を「よくあること」と言ってしまう研究者すらいる。どなたか子どもの立場に立った研究者がいたらぜひ発言して欲しい。

■このプランは考え直してもらいたい。どうせやるなら学校にある子どもの「不安」や「苦しさ」「いたたまれなさ」をしっかり調査し、それに対応する学校(教師)の側の非認知能力を測って、指導や支援の参考にして欲しい。教師が子どもに対してさすがに口では言えないことを、あたかも客観的事実であるかのようにはじき出す、AIの悪用だと思います。

Posted by 長野の子ども白書編集委員会. at 2024年02月23日08:34